目覚めたら初恋の人の妻だった。

毎朝、当たり前の様に助手席に座り、実家へ向かう車中で何故か急に
このシートに私が我が物顔で座ってはいけないような感情に襲われ

「この席に私、座って良いのかしら?」
つい、口に出てしまっていた。
アッと思った時には遅く、運転席で正面を見ているその目には明らかに
悲哀が籠っていた。

「ごめんなさい」

出てしまった言葉は取り返せない。
こんなの、私じゃない。
だって、弁護士を目指すと決めた時から自分の発する言葉は日常会話でも
頭の中で反芻してから口にするように心掛けていた筈なのに・・・
今の私は感情をむき出しで口にしてしまった。

「その席は今までもこれからも柚菜しか座らないし、座らせない。」
「・・・・ありがとう…安心した。」
心の奥でその言葉を乞うていた浅ましい自分。

だけど、その言葉が無いと何かとてつもなく暗い影に
シートごとおおわれそうだったから・・・

記憶を失くしているだけで人間はこんなに不安になるのだろうか?
それてとも不安になる要素を”私”は知っているのだろうか?


日中過ごす実家は滞りなく全てが廻る。

母との会話、お手伝いさんとの距離、食事の時間、作法、座る席も
且つては自分が過ごしていた部屋ですら違和感も感じなくてスーッと
日常に溶け込めるのに、何時までたってもマンションの生活にスーッと
入ってく感覚が掴めない。
此処に居てはいけないと心が拒否しているような感覚。

私好みの家具にリネン、食器、調理器具、それこそコースターまでもが
好きなブランドで揃えられている。なのに ホテルで暮らしている様な
感覚しか起きない不思議。
ホテルの様にモノが無いわけじゃないのに・・・
ベッドには私が気に入っているヌイグルミもあるのに。
この部屋は生きていない私と同じように価値が無いもの。
その考えが脳裏に浮かびハッとする。
どうしてそう思ったのかは解らない、でもそう心が叫ぶ。
目頭が熱くなるのはその虚しい感覚のせいなのか、それとも
深層に閉じ込められた過去の記憶のせいなのか・・・

そんなジレンマに一那も気がついているのか、今の私達の事を決めていく。

朝起きたら口じゃなくても良いから私からキスをする。
車から降りる時は一那から、迎えの車に乗った時は私からキスを落とす
歩く時は手を繋ぐ。
不安になったり、悲しくなったりしたら必ず口にする。
1つづつ新しいページが増える様にと。

休日になると一那は私達が経験したデートを再現するように出掛ける。
楽しい、美味しい、でもそれだけ・・何も思い出さない。
それでも良いと言ってくれるが、たまに瞳の翳りに気がつくと申し訳ない
気持ちで一杯になる。
そして絶対に口に出来ないけれど楽しい反面私はこの休日にいつの間にか
苦手意識が芽生え始めてしまった
今の自分が否定されている様で虚しくなるから・・・

休日に仕事が入って思い出巡りをしないで済むと解ると心からホッとする
その理由は思い出したくないのか、否定されている気分が嫌なのか
解らなくなってきていた
最初は確かに楽しめた思い出巡りも私の記憶は初めてなのに
一那にとっては違う。
私との思い出の地だとは解っていてもまるで一那が元カノである姉と
巡っていたような感覚に陥ってしまうようになっていた
最初は小さなさざ波のような気持だったのが、自分のダークな感情に嫌悪し
波を押し返すと、押し戻された波は更に大きくなって押し寄せ、荒波に
なってしまっていた。

それ以外では一緒に生活していて息苦しく感じる事も不快に思う事も無く、
どちらかと言うと幸せな時が流れ、幼い頃に夢見ていた初恋の人と結婚する
夢物語が現実になっている事に、もしかしたら本当に夢かもと何度もコッソリ
頬を抓った。
それでも幸せの対極に黒い靄に覆われた得体の知れないモノを感じながら
この瞬間を噛み締める。
一那の匂いも、仕草も、声色も私の髪の毛を弄ぶ指先も全て好き。
なのに、なのに 心の奥で何かが引っ掛かっていて言葉に態度に表す事に
躊躇ってしまう。

そんな私を揶揄うかのように沢山の”好き”を口にする私の知らない一那。
私の知っている一那はこんなに甘くなかった。
まだ、恋焦がれていた時に訪れた学園祭では沢山の女生徒を無碍も無く
文字通り蹴散らかしていた。
ついたあだ名が”冷血王子”
私は知らなかったそんな風に呼ばれていたのを・・私と一緒に居る時は
優しい笑顔のままだったから。
でも、その笑顔は”妹”に見せるものだったのだろう。
あの時の笑顔は今でも覚えている。だからこそ今、目の前で笑っている
この笑顔とあの時の笑顔が同じに見えてしまう・・・それはあの時の笑顔を
事故で忘れてしまい、今の笑顔と置き換えられてしまったからなのか
それとも、妹のままの気持ちで私と接しているのか・・・
それを口に出したら、平穏で穏やかな日常が荒波に呑まれてしまいそうで
口に出来ないでいた。
既に一那とした新しい私達のルールを幾つも破っていた。

砂上の楼閣・・・私の生活はそんな言葉がピッタリだと思う。

一緒に居る時に感じる幸福感だけを糧に暮らしていけるのだろうか?

私の不安は幸せに感じれば感じるほど膨らんでいく。

不安が広がる一方、私達の距離は狭まる。
寝起きのキスが一那からお返しだと言っては何度も頬に額に降ってくる。
玄関先でのお迎えもハグが長くなり、椅子に座っている時も沢山、
バックハグをしてくれる。
自分の身体の前に伸びた一那の腕が何時までもそこにあって欲しくて
頬擦りしてしまう。
病院で目覚めた時には感じなかった独占欲に戸惑うばかりの日々。

私はこの独占欲や狂おしいほどの甘い時間を享受して良いのでしょうか?



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