バカ恋ばなし

あの初めての夜から、私の頭の中は石家先生一色になっていた。あのときの優しさと温もりと煙草の味が忘れられない。
(もうこの人しかいない!私、石家先生と結婚する!!)
将来は石家先生のお嫁さんになって専業主婦になり、生涯彼に尽くすこと!私は心を決めていた。そう考えると石家先生に会いたい気持ちが強くなっていた。忘年会から1週間たった日の夕方、私はまた石家先生に会いたくて自宅の固定電話から緊張してプルプル小刻みに震える手でダイヤルを押して先生のいる寮の部屋の内線電話にかけた。
「もしもし‥‥‥」
受話器の向こうから、石家先生の少し籠った感じの声が聞こえた。
「先生、お疲れ様です、丸田です。先生今どこにいますか?」
「あぁ、ゴホッゴホッ!丸ちゃん!今、部屋にいるよ。」
石家先生は2回程咳払いをした。声は多少ガサガサしていた。
「ごめん、ちょっと風邪引いちゃって……」
「先生、大丈夫ですか?」
「ちょっと喉も痛いけどね。」
「何か食べましたか?」
「あぁ、ちょっとは食べたよ。」
「私、何か差し入れ持ってきますよ!」
「いや、いいよ、大丈夫だよ。」
「そんな遠慮しなくても大丈夫です!何か欲しいものありますか?」
「でも……悪いなぁ……」
「大丈夫大丈夫!」
「じゃあ……ペットボトルのウーロン茶と水を買ってきて。あとビール。」
「わかりました!では30分後に向かいます!」
「うん。」
私は半ば強引だが、石家先生への差し入れを口実に部屋へ行く約束を取りつぐことができた。
私は急いでワインレッドのニットワンピースと黒タイツに着替え、モスグリーンのダッフルコートを羽織い茶色のポシェットを肩にかけえ玄関を降りた。時計は18:00を過ぎていた。
「お母さん!今から急に友達に呼び出されたから行ってくる!」
私は玄関から台所にいる母親に向かって大声で言った。
「え?今から?せっかく夕飯作ったのに!」
母親は半ば怒り気味に言ってきた。
「ごめんごめん!行ってくる!帰りはちょっと遅くなるから!」
「あっそう。気負付けて行ってきてね!今度は前もって言ってちょうだい!」
「ごめん!行ってきま~す!」
私は心弾みながら足どりも軽く、車に乗り込んでエンジンをかけ家を出た。コンビニでペットボトル550mlのウーロン茶と水を2本ずつ、そして350mlの缶ビールを2本購入していざ病院裏の医師寮へ向かった。寮の1階フロア左端の部屋の前に到着し、ドアをノックした。
「は~い。」
ドアの向こうから石家先生が返事をした。私はガチャっとドアを開けて中に入った。暖房の温かい空気と共にムワッと以前よりも強い煙草の臭いが鼻を突いた。
「先生、風邪大丈夫ですかぁ?」
石家先生は敷布団の上にグレーの上下スウェット姿で横たわって漫画を読んでいた。
「やぁ、すまないねぇ。」
石家先生は漫画から顔を離し、クシャっとした笑顔でお礼を言った。
私はペットボトルと缶ビールの入ったビニール袋を床に置き、石家先生が横になっている敷布団の隣に正座をした。石家先生は布団からムクッと起きて手を伸ばし、私の頭に右手を置き、左右にゆっくり撫でた。
「今日は仕事だったの?」
石家先生は私の頭を撫でながら少しガサガサした声で言った。
「いいえ。今日はお休みでした。先生は体調悪いからお仕事お休みしたんですか?」
私は先生を真っ直ぐ見ながら言った。
「うんまぁね。午前中分娩があってさー。体調悪かったから参ったよ。でも今晩のオンコールは沼尻先生が交代してくれたからよかったよ。」
石家先生は私の頭を撫でながら笑顔で言った。
「そうですかー。体調悪い上に分娩だなんて、大変だったですね。」
「まぁ、でも午後から休めたからよかったよ。今は喉が少し痛むけど飯は食えるし大丈夫だよ。」
「先生、ご飯は?」
「もう食べた。コンビニ飯だけどね。」
石家先生はクシャっと笑いながら言った。その笑顔を見る度に私の心はキュンと締め付けられるようだった。石家先生は私の頭を撫でていた右手を降ろして私の左腕を掴み、私を自分の胸元に引き寄せた。胸板から煙草の臭いと心臓の鼓動、体温の心地よい暖かさを感じた。石家先生はそのままひっくり返って私の上に覆いかぶさるように乗ってきた。今回は以前よりも何だか展開が早かった。
その後、また二人で夜の時間を過ごした。先生の身体中から出る煙草の臭いと口の中に広がる煙草の味を噛みしめながら、私は先生のされるがままにジッとしていた。しかし今回も私が「痛い!」と騒ぎ、失敗に終わった。でも私はこれで大切なことについて確信が持てたような気がした。
(やっぱり石家先生と私は両想いなんだ……)
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