腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
「疲れたでしょう」
「そう、ですね。少し」
そう言う左右之助さんこそ、疲れた顔をしている。それでも私を安心させるように笑いかけた。ああ……やっぱり、綺麗な笑顔だなあ。
「ここにいれば安心です。本宅は都内にありますが、しばらくは南座の興行の準備でこちらにいますから。貴女も慣れた京都で新生活をスタートする方がいいでしょう」
確かに梨園と東京の生活、ダブルパンチで慣れなければいけないのはよりハードルが高そうだ。って、もう新生活がスタートする前提になっているのが解せないけど。

「この家はセキュリティが完璧ですし、七さんも八重さんも信頼できる方です。分からないことがあれば気軽に聞いて下さい」
「ありがとうございます」
もはや結婚は動かし難い決定事項とはいえ、会見場になった南座で浮かんだ疑念で胸の中にモヤモヤが募る。
「あなたの部屋はこちらです」
左右之助さんが先導して廊下を歩くと、左右七さんが私の荷物を持って追いかけてくる。

「坊っちゃん、お荷物どちらに運びましょう?」
「坊っちゃん?」
「あ……」
左右之助さんの顔がさっと赤くなる。
「申し訳ありません。私は、坊っちゃん……若旦那が本当に小さい頃からお仕えしているものですから」
左右七さんがバツが悪そうに私と左右之助さんを交互に見る。

梨園では、その家で一番格が上の『止め名(とめな)』という名前を持つ人が旦那と呼ばれる。御苑屋だったら左右十郎、柏屋だったら鴛桜のことだ。左右之助さんのような後継は、本当は若旦那と呼ばれるはずなんだけど、左右七さんの中ではいつまでも坊っちゃんなんだろう。
「奥様の前では若旦那とお呼びしますので」
「今更いいでしょう。日向子さんも身内になるんですから」
身内になる……その言葉に左右七さんがぱあっと笑顔になった。
「はい、坊っちゃん!」

「ふふ……」
顔いっぱいの笑顔につられて、私もつい笑ってしまう。
「七さん……なんだってそんなにはしゃいでいるんですか」
「そりゃあ嬉しいに決まってるじゃありませんか」
左右七さんの瞳はうるうるしていて、今にも泣き出さんばかりだ。
「家族の縁が薄い坊っちゃんに、奥様ができるんですから。しかもご自身でお決めになって……こんなに嬉しいことがありますか」

きっと左右七さんは長年、心を込めて左右之助さんを支えてきたんだろう。私と左右之助さんが家族になることを心から喜んでる。多分、八重さんも。
能天気に笑っていられた気持ちは消えて、罪悪感に胸がちくちく痛んだ。こんなに喜んでくれる人がいる。結婚するならちゃんと家族にならなきゃいけない。

胸に抱えたモヤモヤをこのままにして、本物の家族になることは到底できやしない。
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