腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
左右之助さんは、母屋の奥にある一室に私を案内してくれた。左右七さんは荷物を置いて、早々に下がっていく。
「こちらが貴女のお部屋です」
「わあ、ステキ」
結婚を決めてから記者会見までたった半日。それなのに女性らしいインテリアで整えられていた。いつ準備したんだろう。

「気に入るか分かりませんが……これから徐々に揃えていきましょう」
「充分すぎるくらいです」
「それなら良かった」
左右之助さんがホッとしたように笑う。もしかして、彼が選んだのかな?
「貴女の好みが分からなかったので、少々心配でした」
「左右之助さんが選んでくれたんですか?」
「ええ、八重さんにも付き合ってもらいましたが」
びっくり。この口ぶりだと、自身がお店に足を運んで選んだってことだよね。もしかしてプロポーズした時にはもう、部屋の設えを始めていたんだろうか。

「残りの荷物も落ち着いたら取りに行かせますので」
「ほとぼりがさめた頃にでも、自分で行きますよ。お部屋を退去する手続きもしないといけないし」
「ああ、そういうことも必要なんですね」
そっか、御曹司は賃貸の退去手続きなんて知らないのか。早速お互いのギャップに驚きつつ、左右七さんが運んでくれた段ボールに目を留めた。
「じゃ、荷解きしちゃおうかな」
「手伝いましょう」
「大丈夫ですよ。今持ってきている荷物はちょっとだけですし」

最初の段ボールを開けると、歌舞伎の本やDVDが入っている。部屋を見回すと、奥の方にキャビネットが置かれていた。ジャンル別に並べていくと、いつの間にか左右之助さんが隣にいて箱の中身を眺めている。
「本当に歌舞伎が好きなんですね」
手に取っていたのは『おどり』という本。これは左右之助さんの曽祖父、十一代目松川左右十郎が書いた本で、日常の中におどりの真髄があるという舞踊の極意書だ。歌舞伎役者の日常についても書かれていて、エッセイとしても楽しく読める。
「なぜ二冊あるんですか」
「一冊は読む用で、もう一冊は保存用です」
「では、この本は我が家に今三冊あることになりますね」

左右之助さんが部屋の奥に進んでいくと、ドアがついている。ここはコネクティングルームの一室らしい。隣の部屋と中で繋がってるんだ。
「ほら」
ドアから隣に消えた左右之助さんは、すぐに同じ本を持って入ってきた。
「同じの持ってるんですか?」
「歌舞伎役者でも持っている人間はそう多くないと思いますよ」
「これ、絶版ですもんね!」
「貴重な蔵書がここに集まりました」
左右之助さんもどことなく嬉しそうだ。もしかして歌舞伎を間に挟めば、私たち上手くやっていけそう、かも……?

「うちにある本や資料はお好きに見ていただいて構いませんよ。隣が夫婦の寝室、また奥が僕の私室ですから」
「えっ」
夫婦の寝室、という響きに現実を突きつけられる。
「書籍は今、僕の私室にありますが寝室の方に移動しておきます」
「あ、ありがとうございます……」
そっか、夫婦になるからには、寝室も一緒だしそういうこともあるわけで──照れ臭くて俯いていると、左右之助さんが困ったように笑った。

「しばらくは私室で休みますか?」
「えーと……」
「そういうことも、おいおい決めていきましょう」
「そういうこと?」
「一緒に生活する上での約束事という感じでしょうか」
本棚から顔を上げて、左右之助さんは目を細めた。
「貴女だったら僕のお稽古の邪魔はしないでしょうね」
ん?突然、なにを聞かれているんだろう。
「そりゃ、しませんけど」
むしろ……今まで、邪魔されたことがあるのかな?

「私に叶えられる範囲であれば、日向子さんはお好きにしていただいて構いません」
「は?」
『お好きにしていい』の意味がよく分からない。

「僕の公演の時は、折に触れて妻として歌舞伎座に来てもらう必要があります。ご贔屓筋の接待や挨拶などもしていただかなければなりませんが……それ以外の時間はできる限り自由に過ごしていただきたいと思っています」
私の意向も聞かずに、一方的に何を言い出すんだろうこの人は。結婚はするけど、なるべく自由にしてろって……むしろちゃんとした夫婦や家族になる気はないってこと?
「あの、左右之助さん……」
「恋愛もスキャンダルにならないかぎり、好きにしていただいて結構」
「はあ?」
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