腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
ニヤニヤと笑って、桜枝さんは息がかかるほど近く顔を覗き込んでくる。
「そうやってツケ打ちさんまでたらし込んだわけですか」
「おかげさまで仲良くさせていただいてます」
反論したこと自体を失言だと取られかねないように、慎重に言葉を選ぶ。

「左右之助くんが休みの間、ずいぶんと稽古場のみんなを差し入れで手懐けたようで」
「母の店の料理ですが、お口に合ったなら嬉しいです」
慎重に言葉を選んでにっこりと笑みを返した。
「打ち上げにでも美芳を使っていただけたら、なお嬉しいですわ」
「む」
お母さん……これもお母さんの言動を見ていたおかげでできることだよ。ありがとう。

「そんなにお好きなら一番最近の自分の公演を見ましたか?」
桜枝さんが不意に思い付いたように言った。
「え?」
「演目は?自分の芝居はどうでしたか?」
うーん、困ったな。
言い淀む私に、桜枝さんはさらにグイグイと迫ってくる。
「どうしました?見てくださってない?」
「俊寛でしたよね」

柏屋の平家女護島~俊寛〜(へいけにょごのしましゅんかん)の直近の公演は南座だ。もちろん足を運んでいる。
まあ、ぶっちゃけ私の心象は良くはなかった。
歌舞伎の感想について嘘は言いたくないけれど、正直に言ってしまえば、
「へえええ、そんな風にご覧になったんですかあああ?あれは会心の出来だったのに〜」
とかなんとか、しばらくタラタラ言われるのが目に見えるようだ。
詰め寄られて答えに困っていると──

「あなたが演じた千鳥(ちどり)は秀逸でしたね」
背後からそっと肩に手が置かれる気配がした。
「左右之助さん」
いつの間にお稽古がひと段落したのか、左右之助さんが背後にいる。

「お姫様のような千鳥でした」

「な……!」
左右之助さんの一言に、桜枝さんの顔色がみるみる赤くなる。周囲の役者さんや裏方さんたちから、感心したような声や失笑が漏れた。
「左右之助の若旦那も言う時は言うんだね」
背後で誰かがヒソヒソと呟く。
本当だよ、言う時は言うんだね。
これって痛烈な嫌味だもの。
俊寛に登場する千鳥は、方言の可愛らしい海女だ。恩人の俊寛のために清盛に歯向かうような気合の入った女性で、決してお姫様のようにただ綺麗なだけの女性ではない。
何となくざわつきつつもみんなが左右之助さんサイドな空気の中、桜枝さんだけが苦々しい顔をしていた。
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