腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
左右之助さんのフォローに助けられて、その日の合同稽古が終わった。夜、夫婦の寝室のドアが背後でパタンと音を立てて閉まると、びくりと身体が跳ねる。
「……っ」
左右之助さんの腕が背後から伸びてきて、その輪の中にしっかりと抱き締められていたからだ。
「左右之助さん?」
「玄兎、ですよ」
いつだったか左右之助さんに身を任せた時の記憶が蘇ってくる。
「玄兎……さ、ん」
結婚したからこそ、公の場で本名を呼ぶことはない。この名前を呼ぶことは、夫婦の時間の始まりの合図のようなものだった。
「貴女は人気者ですね」
彼の指が肌の上で蠢くたびに、お腹の奥に疼きともどかしさが生まれる。この感触はよく知っている。私を翻弄し、乱れさせ、この痺れに逆らえなくなる。今はもう夫婦となった私たちの間に、あの時のような抵抗すべき論理的な理由は存在しなかった。
「さっき、大丈夫だったんですか」
それでも左右之助さんは、私の反応を窺って強いてそれ以上進めようとはしない。
「何がです?」
「桜枝さんに……あんな、嫌味を言ったりして」
「嫌味だと気づく日向子さんはさすがですね」
「そりゃ、分かりますよ」
俊寛の話のあらましはこうだった。
薩摩の国から遠く離れた孤島鬼界ケ島に、俊寛僧都(しゅんかんそうず)と丹波少将成経(たんばのしょうしょうなりつね)、平判官康頼(へいはんがんやすより)が流罪になって三年後。都で権力を誇った暮らしとは程遠い衣食もままならない生活で、いつの日か許されて都に帰ることだけを唯一の希望に毎日を送っている中、年若い成経が海女の千鳥を妻に迎えることになる。
「『お姫様のような』千鳥だなんて」
「プッ……」
先に吹き出したのは玄兎さんの方だった。手を取られてベッドに横たわると、何をするでもなく顔を見合わせて眠るまでおしゃべりをするのが結婚してからの習慣になっている。
千鳥は若手の役者にとってはいい役だ。世襲じゃない役者さんは外から弟子入りしたり、部屋子になったりして、下積みからキャリアがスタートする。
中には師匠に引き上げられて大抜擢されたり、養子になったりするような役者さんもいるけど、一般的にはコンスタントにセリフのあるお役がもらえるようになるには十年程度かかる。
千鳥のお役がつくには、どれほどの時間とお稽古が必要だろう。
対して御曹司は一足飛びにお役をもらえる。公務員で言ったら、キャリア官僚みたいなもんだ。まあ、御曹司には御曹司の苦労があるっていうのは、左右之助さんと知り合って分かったんだけどね。
「……っ」
左右之助さんの腕が背後から伸びてきて、その輪の中にしっかりと抱き締められていたからだ。
「左右之助さん?」
「玄兎、ですよ」
いつだったか左右之助さんに身を任せた時の記憶が蘇ってくる。
「玄兎……さ、ん」
結婚したからこそ、公の場で本名を呼ぶことはない。この名前を呼ぶことは、夫婦の時間の始まりの合図のようなものだった。
「貴女は人気者ですね」
彼の指が肌の上で蠢くたびに、お腹の奥に疼きともどかしさが生まれる。この感触はよく知っている。私を翻弄し、乱れさせ、この痺れに逆らえなくなる。今はもう夫婦となった私たちの間に、あの時のような抵抗すべき論理的な理由は存在しなかった。
「さっき、大丈夫だったんですか」
それでも左右之助さんは、私の反応を窺って強いてそれ以上進めようとはしない。
「何がです?」
「桜枝さんに……あんな、嫌味を言ったりして」
「嫌味だと気づく日向子さんはさすがですね」
「そりゃ、分かりますよ」
俊寛の話のあらましはこうだった。
薩摩の国から遠く離れた孤島鬼界ケ島に、俊寛僧都(しゅんかんそうず)と丹波少将成経(たんばのしょうしょうなりつね)、平判官康頼(へいはんがんやすより)が流罪になって三年後。都で権力を誇った暮らしとは程遠い衣食もままならない生活で、いつの日か許されて都に帰ることだけを唯一の希望に毎日を送っている中、年若い成経が海女の千鳥を妻に迎えることになる。
「『お姫様のような』千鳥だなんて」
「プッ……」
先に吹き出したのは玄兎さんの方だった。手を取られてベッドに横たわると、何をするでもなく顔を見合わせて眠るまでおしゃべりをするのが結婚してからの習慣になっている。
千鳥は若手の役者にとってはいい役だ。世襲じゃない役者さんは外から弟子入りしたり、部屋子になったりして、下積みからキャリアがスタートする。
中には師匠に引き上げられて大抜擢されたり、養子になったりするような役者さんもいるけど、一般的にはコンスタントにセリフのあるお役がもらえるようになるには十年程度かかる。
千鳥のお役がつくには、どれほどの時間とお稽古が必要だろう。
対して御曹司は一足飛びにお役をもらえる。公務員で言ったら、キャリア官僚みたいなもんだ。まあ、御曹司には御曹司の苦労があるっていうのは、左右之助さんと知り合って分かったんだけどね。