冷徹外科医と始める溺愛尽くしの政略結婚~不本意ながら、身代わりとして嫁ぎます~
 どこかに寄り道をした一矢さんの足音は、だんだんとリビングに近づいてくる。
 どうしたらよいのか、不安と緊張で背中に嫌な汗や吹き出してきた。

 途切れず続いていたメッセージのやりとりで、自分の中ではどこか彼に慣れたつもりになっていた。でも、こんなふうに実際に顔を合わせたら、現実はまったく違うのだと思い知らされてしまう。

 一矢さんははじめから私に警告をしていた。私とはなれ合うつもりはないのだと。
 それなのに、少しばかり気遣う素振りを感じて、すっかりつけ上がってしまっていた自分が恥ずかしい。

 部屋に戻らないと、と思い至ったときにはもう遅かった。

「こんなに早くから起きているのか?」

 背後からかけられた声に、思わずぎゅっと肩に力が入った。
 なにかを言わないと、と思うのに口ははくはくと無意味に開閉するだけで、意味のある言葉が出てこない。なかばパニックを起こしかけた状態では、なにもできなくなってしまう。

「どうした? なぜ答えない」

「あ、あ……」

 さらに近づいてくる一矢さんに、焦りは募るばかり。

「朝食か」

 少し距離を置いて横に立った一矢さんが、フライ返しを握った私の手元を覗いてきた。その視線がそのまま私の顔に向けられるのを感じて、とっさに俯いた。耳にかけていた髪が垂れて、表情を隠してくれるが、それだけではこの緊張は解けそうにもない。

「なんとか言ったらどうなんだ」

 決して強く詰め寄るような口調ではない。彼の声音には怒りも嘲りもなく、なにか特別な感情が込められているわけではない。
 私の態度を探るような気配はあるものの、咎めるつもりはないだろうとその雰囲気から伝ってくる。

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