彼と私のお伽噺

 そのとき、背の高いスーツ姿の男性がカフェに向かって近付いてきた。その横顔を見た瞬間、空っぽの紙カップが手から滑り落ちそうになる。

 速足で歩いてきてカフェに入って行った男性は昴生さんだったから。

 やっぱり、妃香さんは昴生さんと待ち合わせるためにここに……。

 一度は消えたはずの不安がまた湧き上がってきて、心臓がバクバクと鳴り始める。

 立っている足にうまく力が入らなくなり、椅子にストンと腰が落ちた。

 カフェの窓際で打ち合わせをしていたサラリーマンたちが席を立ち、その奥の席に座っている妃香さんの姿がよく見えるようになる。

 本を片手に飲み物を飲んでいた妃香さんが顔をあげて、近付いてきたスーツの男性に笑いかけている。

 妃香さんの向かいに座ったその人はこちらに背を向けているけれど、その後ろ姿はまぎれもなく昴生さんで。身体が手の爪先から徐々に冷えていった。

 昴生さんは、今夜、優生さんと食事をするんじゃなかったの——? 妃香さんに会うために私に嘘をついたの——?

 椅子に座り込んだまま動けずにいると、しばらくして、昴生さんが妃香さんと一緒にカフェから出てきた。

 並んでどこかへ歩いていくふたりはとても親しげだ。

 昴生さんが妃香さんと一緒にどこへ行くのか気になったけれど、もう後を追う気にはなれない。

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