エリート弁護士は契約妻と愛を交わすまで諦めない
本当にもういなくなっちゃうんだ。
入り口付近で呆然と佇んでいたら、朔が救急箱を持って入ってくる。朔の祖母がいつも怪我をしたら持ってきてくれた木箱のそれを朔は開けて、消毒液と塗り薬、絆創膏を取り出した。
「そこ座って」
「自分で……」
「自分でやりにくい位置だろ。座ってろ」
朔に押し切られて勉強机に収まっていた椅子を引っ張り出して座る。服が濡れているからクッションに染みないかと心配になっているうちに、朔が私の足を触れたからビクッと身体が跳ねた。異性に足を触られたことなどなかった。朔は何も気づいていない様子でティッシュを踵の傷口に添えると、消毒液をひと拭きかける。
「いったた」
「沁みるか?」
「少しね。でも、平気」
それよりも朔に触られているほうが心臓にくる。とは言えないから、羞恥に耐えるしかない。
事実、水で洗って冷えていた足が彼の指が触れた部分から熱を持ち、あっという間に広がっていく。
朔が手際よくチューブの軟膏を指先に取り、傷口にそっと乗せる。なぞる様に指を動かされると足からゾクゾクと這い上がってくる感覚がして、咄嗟に奥歯を噛んでそっぽを向いた。心が惑乱する。欲情しているなんて、朔に知られたくなかった。
「ねぇ朔、すごい雨だね」
朔の顔が見られないから、窓の外を見ながら意識をどこかに飛ばしたくて話しかける。やけに大きくわざとらしい自分の声が殺風景な部屋に響く。
「うわ、雷鳴りだした。朔、見て……」
ベランダに続くガラスドアの向こうを見て話し続けたら、手を引かれて前によろけた。
「さ……」
名前を呼ぶ前に唇を塞がれる。キスをしているとどんどん音が消えていって、もう彼しか感じられなくなった。
「柚瑠」
湿度がまとわりつく空気に朔の低く熱の籠った声が混ざっていく。朔の瞳に切なさと悲しみと苛烈な情熱を見た瞬間、自分がどうなるのか、そして自分もそうなりたいという欲求を理解して彼の身体を抱きしめた。朔は軽々私を抱き上げると、ベッドに移動した。
そこからは足の傷とか雨に濡れた身体とか、気にしていたことが全部吹っ飛んで、朔の部屋で真夏の太陽が落ちるまで抱き合った。
知識だけは耳年増であっても、初めての経験でわけもわからないまま進んでいく。多分、朔も初めてでふたりとも拙い、手探りの行為だったけど、すごく心が満たされた。幸せってこういうことなのかと実感した。
情事の後、私は疲れてまどろんでいたら朔の母親が家に来たから、慌てて服を着て逃げるように帰った。朔に呼び止められたけど、恥ずかしくて足を止めることもせず、ろくに会話もできないまま。
しかも、次の日に私は熱を出して、朔の見送りもできなかった。
朔がアメリカに行って短いメールのやり取りはしていた。ただ、それも夏休みを開けたらぱったりと途切れた。身体を繋げても愛の告白をするわけでもなく、あの日のことはなかったみたいに、メールも普段の何気ない話ばかりだったから。きっと、朔も異国での新生活で忙しくなり私に飽きてしまったのだろう。
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