教育的(仮)結婚~残念御曹司(?)のスパダリ育成プロジェクト~
「ああ、どうもありがとう」

 笑いかけられた瞬間、トレイを落としそうになった。

「あ……」

 戻ってみると、田島先輩はエクリュのジャケットを脱いでいた。中に着ていたのは青と白のかなり太いストライプのシャツで、カーキのパンツを合わせている。

 ずっと忘れていたのに、それに同じものかどうかもわからないのに、何よりそんなことはどうでもいいはずなのに……私はあの日の彼が似たような恰好だったことを唐突に思い出したのだ。

「ど、どうぞ」

 相手の視線を受け止められず、つい目をそらしてしまう。
 接客業ではアイコンタクトはとても重要だし、こんなことは入社以来初めてだった。しかもまずいとわかっているのに、どうすることもできない。

 グラスや皿をテーブルに置くと、私はソファからやや離れた椅子に腰を下ろした。
 ふだんはお客様の正面に座るが、今は少しでも距離を取りたかったのだ。

 幸い田島先輩は私の動揺には気づいていないようだった。

「うん。おいしいよ、桐島さん。ちょうど喉が渇いていたから助かった」
「ありがとうございます」

 けれどもただ一緒にいるだけなのに、脈はだんだん速くなって、背中に冷たい汗までかき始めていた。
 落ち着こうとすればするほど、逆に気持ちが波立ってしまう。それでも――。

(しっかりしなきゃ)

 そう、休んでほしいという林太郎さんの頼みを断ったのは私だ。さらに「大丈夫ですから」と言い切って背を向けたのだ。

 だから今さらうろたえて、この場から逃げ出すわけにはいかない。
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