婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。

「怖い?」
 低い声で耳元で問われて、背筋に、悪寒にも似たものが走る。
「……少し」
「ごめん、今日会ったばかりでこんなこと、するべきじゃないってわかってるけど」
 体に巻き付く腕に、さらに力と熱がこもる。その感触に朝海は身じろぎした。
「どうしても今夜、君が欲しい……好きなんだ」
 ささやく声の甘さが、鼓膜を響かせて沁みてくる。
(好き……だなんて)
 本気で言われているのではないことぐらい、わかる。こんな、何もかも持っているような、望めば何でも手に入るであろう人が、自分みたいな平凡な女を好きになるはずがない。
 ただ、出会いが不意をついていたから、珍しく感じるだけのこと。
 一度抱いて、夜が明ければ、そんなちゃちな魔法は解けてしまうだろう。
 ──それでもいい、と朝海は思った。
 この人に、こんなふうに求められることなんか、二度とないだろう。
 どうせ一度きりならば、彼の求めに応じて、流されてしまってもいいのではないか。
 きっと特別な思い出にできる──忘れられない、格別な思い出に。
 けれど緊張で体が震えてしまうのはどうしようもない。止まらない震えを不審に思ったのか、振り向かされて尋ねられる。
「もしかしてだけど、初めて?」
「い、いえ。違います」
 あの男と付き合って、三ヵ月目には初めて抱かれた。以降、会った時にはたいてい、行為をしていた。
 だけど自分には、その一人との経験しかない。いかにも女性との付き合いに慣れていそうなこの人に、物足りなく思われたりしないだろうか。そんな不安があった。
「じゃあ、緊張してる? 僕をよく知らないから」
「え、ええと……」
 言いよどむ朝海の頬を両手で挟み、聡志は顔を近づけてきた。唇が一瞬重なる。
「君の嫌がることはしないって約束する。絶対に、後悔はさせないから」
 きっぱりと言い切る聡志は真剣そのものの表情をしていた。
 後悔はさせないから、だなんて、ずいぶんと自信家な発言をするものだ。
 実際、それだけの自信が本当にあるのだろうと思わされる雰囲気を、聡志はまとっていた。
 ……本当に、自分なんかで大丈夫だろうか。たとえ一夜の相手だとしても。
 目を伏せた朝海の顔をくいっと上げ、聡志は安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、何も不安に思うな。僕に任せてくれればいいから」
 再び顔が近づき、唇が重ねられた。今度はさっきのように一瞬ではなく、押し付けるように触れられる。
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