メール婚~拝啓旦那様 私は今日も元気です~

灯里は、定期船から身を乗り出して海風を胸一杯に吸い込んだ。
四月の風はまだ冷たく、デッキにいるのは灯里一人。でも、ワクワクする気持ちが寒さに勝って、海を見つめている。
山間の村育ちの灯里は海とは縁がない。船に乗るのも、観覧船以外は初めてのことだ。
この状況を楽しいと感じている自分に呆れる気もするが、まさに乗りかかった船。この三年間が楽しいものになりますように、と祈る気持ちでもう一度深く海風を吸った。

今西から説明を聞いて、すぐに結婚を決めた灯里だったが、祖父母に結婚することを告げたのは二ヵ月ほど経ってからだった。

どんな反応をされるだろうかとドキドキしていたが、驚いたことにクリエイトウエストの社長自ら祖父母と連絡を取ってくれたらしく、反対されずに許しを得ることができた。祖父母曰く、とても感じのいい青年ということだ。

灯里自身は最初の打ち合わせ通り、社長とは一度も会っていない。契約書を取り交わし、婚姻届に署名したのも今西を通してだ。
でも、社長の名前が「安西陽大(あんざいはると)」だということは知っている。婚姻届にそう書いてあったので。

夫の欄に書かれた名前が、一文字一文字丁寧に書かれたものだというのは見てわかった。それが嬉しかったし、ホッとしたのも事実。だから灯里も丁寧に署名をした。一枚の紙だけの繋がりでも、ちょっと気持ちが通じ合った気がしたのだ。

契約期間がわかりやすいということで四月一日の今日が入籍、離婚は三年後の三月三十一日となっている。本当に就職するみたい、そう思うと少し気が楽になる。

役所への提出は今西がしてくれるので、おそらくもう「安西灯里」になっているはずだ。実在しない人間のようで心もとないが、そのうち慣れていくんだろうか。

記念すべき最初の赴任地(いちおう単身赴任ということになる)は瀬戸内海の小さな島だ。事前にデータを渡されているので、そこに書かれている特産物や行事などが実際と合っているかどうかを報告するらしい。そして、なるべく島の人たちと打ち解けて、普段の様子を知らせてくれと言われている。

今後いろいろな土地に行くわけだが、滞在理由はどこも同じ。『地方の暮らしを体験し、滞在記を書くため』という設定だ。あながち嘘ではないので、誰かに聞かれたときも挙動不審にはならないだろう。

船が島に到着し、灯里は揺れる船からしっかりとした陸地に一歩踏み出す。
偽装の結婚生活はこうしてスタートした。

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