君が夢から醒めるまで

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 結局昼食はばあちゃんが作った。食卓に並べられたカレーを見て、自分で言い出したものの正直食べる気が起きない。作ってもらえるならもっとさっぱりしたものをリクエストすればよかったと後悔しながらスプーンを手にする。

「二日酔いにカレーは酷だったかしらね」

 一口食べては水を飲む俺を見てばあちゃんはくすくすと笑い、さらには「でも自分で言い出したのよ」と付け加えると今度は意地悪そうな笑みを浮かべた。ムキになって頬張る孫を見て面白くなったのか「おかわりもあるからね」と少しいたずらそうに言うばあちゃんはとても楽しそうだった。

 これが俺の望んだ幸せの形だと、目の前で笑うばあちゃんを見て思う。大切な人が傍で笑う、それが俺の願いだったんだ。
 俺は二日酔いのことなんてすっかり忘れて、笑顔のばあちゃんと一緒にカレーを食べた。ここに母さんもいたら、父さんもいたら、そんなことを考えながら食べるカレーは少し辛くて、水の減りはカレーの減りと比例しなかった。

「それで匠真、就職活動の方は順調?」

 お互いに半分ほど食べたところでばあちゃんが急に真剣な面持ちで言った。スプーンを持った右手は皿の上から動くことなく、ばあちゃんは俺の目を見てただその返答を待っている。

「いやー、順調ではないかな。やりたいこととか、興味あることとか、正直まだあんまり分かんなくてさ。でも色々行ってはみてるよ、説明会も面接も」

 言葉にすると恥ずかしくなる。就活生として未熟すぎる自分が情けなかった。本当は何とだって嘘くらいつけたのにそれをしなかったのは、もうこれ以上この人の前で嘘をつきたくなかったからだと思う。

「まぁ、そんなことだろうと思ったよ」

 意外にもさらっと受け流したばあちゃんに少々気後れしたけど、その柔らかい表情を見てすぐに安心した。

「実は私にも一人息子がいてね」

 安心しきった俺が続きを食べようとスプーンを持ったとき、そのタイミングでばあちゃんがそんなことを言うものだから、手の力が緩みスプーンと食器がカチャンと音を奏でた。焦りを悟られないようにもう一度力を入れて、カレーを頬張る。その動揺はスパイスを打ち消し、俺は味のしないカレーを食べながらばあちゃんの話を聞くこととなった。

「もう本当に仕事人間でね、そのせいで家族を手放すことになったの。そんな仕事人間の息子がいつも言ってたのは、自分に正直でいること。何かを犠牲にするとしても、自分には嘘つきたくないって、かっこつけたこと言ってたわ。——でも、それが、必要なのかもしれないね。あなたも、私も」

 金属音を立ててばあちゃんはスプーンを置いた。そして立ち上がると、書斎から何かを持ち出して俺の前に置いた。
 アルバムだろうか。一枚目を捲ると目に入ってきたその写真を見て、思わず「え」と声が出る。
 覚えている、たしか中学の入学式だ。でもどうしてこんなものがあるのだろう。見たことのないアルバムと、何かが壊れようとしているこの空気に手が震えているのが分かった。

「全部、あなたのためだと思ってた。あなたが笑ってくれるなら、幸せでいてくれるなら、それが一番だと思ってたの。だけどそれは間違いだったって、やっと気づいた。——匠真、辛い思いをさせて、ごめんね」

 目に涙を浮かべるばあちゃんを見て頭が真っ白になる。また(・・)、どこで、間違ってしまったのだろう。俺は、俺は……。

「匠真は何も悪くない。何も、間違ってなんかない。もう自分を責めるのはやめなさい。誰もあなたといて不幸になんてならないから。だからもう、嘘なんてつかなくていいの。正直になったらいいの。——匠真、戻っておいで。一ノ瀬匠真に、私の孫に、戻っておいで」

 この人は、こんなにも苦しそうなこの人は、俺に何を伝えてきているのだろう。何が嘘で、何が本当なのか、これが現実なのか、それとも夢なのか、それすらも分からなくなる。
 現状と思考の歯車は一切合うことがなく、時間が止まってしったかのように何も言えない俺に新たな情報は次々と送られてきた。

「匠真が意識を取り戻すまでの一ヶ月間、ただあなたが目覚めることだけを祈った。——あなたのお父さんも、来てくれたのよ。匠真の手を何度も握って家族三人であなたの回復を待った。そして三人で約束したの。匠真が目を覚ましたら、もう絶対に傷つけないって。抱え切れないほどの辛さを経験したあなたに幸せになってほしい。それが私たちの願いだった。——だからあなたが何も覚えていないって言ったとき、正直私たちは救われた。あなたに新しい人生を与えることができると思った。だからあなたのお父さんは、あなたの元を離れたの。だけどね、やっぱり匠真は私たちの大切な家族だから、だからあなたの嘘にはすぐに気がついた。悲しい嘘をつかせていることに、ずっと気づいてたの。それでもあなたが選んだのなら、それが一番いいと思って今日までずっと——」

「何を、言ってるの……何を」

「匠真、聞いて。匠真は匠真のままでいい。あなたに捨てないといけない過去なんてない。新しい自分になる必要もない。だってあなたは、皆から愛されてるんだから。今までもこれからも、あなたの周りにはあなたを大切に想ってくれる人がいる」

「それは違うよ。絶対に違う。だって俺がいなかったら父さんと母さんは離婚なんてしなかった。それに、俺のせいで……俺のせいで、母さんは死んだ」

 溢れ出る想いを誰か止めてくれ。抗えない気持ちに俺は必死に抵抗した。どんなに抵抗しても勝てそうにないその想いは熱となって俺の体を巡る。

「あれは事故だった。匠真のせいじゃいない。——それを、渡したかっただけなのよ。あなたのお母さんの全てが、そのアルバムに詰まってる。長い間、渡せなかったことを許してほしい。お願い匠真、それを見てあげてくれる?」

 ばあちゃんは俺の手の中にあるアルバムに目線を落とした。手の震えは止まることを知らないようで、ページを捲るのに相当な時間がかかった。俺の記憶にない幼少期の写真からよく覚えている中学時代の写真まで、そこには何枚もの写真が綴られていた。笑顔で写る父さんと母さん、その間で笑う俺はすごく小さく見えた。

『匠真へ』

 そう書かれたページは一番最後にあった。
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