甘やかし婚   ~失恋当日、極上御曹司に求愛されました~
「……時間がなかったとはいえ、署名がご両親のものではなくて悪いな」


ぽつりとつぶやく声に婚姻届から視線を上げると、郁さんの少し困ったような表情とぶつかった。

この人は、やはり優しい。

強引さは否めないが、その中で郁さんは私の気持ちや考えを最大限に汲もうとしてくれていた。

自分の利益を優先するならば、私の両親に事前に連絡したり塔子に署名を頼む必要はない。

すべてを無視して突き進めばいいし、役所に直行する選択肢もあっただろう。

だけど彼はそうせず、私に最終確認をするかのように向き合うタイミングを与えてくれた。

契約上、利益上の妻となる私を大切にしてくれる姿に胸が熱くなった。


「……いえ、塔子に頼んでくれてありがとう」


素直な思いを口にすると、彼は花が綻ぶようにふわりと表情を緩めた。

その瞬間、胸がきゅうっと締めつけられ頬が一気に熱をもった。

彼に気づかれないよううつむいて、婚姻届けにサインする。

何度も書きなれた名字なのに指が震えて思うように書き進められない。

そんな私に郁さんはなにも言わなかった。

戸締りを入念にし、部屋をあとにする。

滞在時間は一時間にも満たなかった。

今朝、家を出たときには考えもしなかった状況に眩暈がしそうだ。

ずっしりと重くなったキャリーバッグを彼が持ってくれた。
< 82 / 190 >

この作品をシェア

pagetop