甘やかし婚   ~失恋当日、極上御曹司に求愛されました~
食事を終えて、片付けをしていると郁さんにお風呂に入るよう促された。


「いえ、郁さん、お先にどうぞ」


「引っ越してきたばかりで疲れただろう?」


「私は大丈夫です」


軽い押し問答を繰り返していると痺れを切らしたのか、彼がニッと口角を上げる。


「わかった。じゃあ沙也、一緒に入ろうか?」


「えっ」


「お互いの主張を叶えるにはこの方法が最良だろ」


幅広の二重の目が楽しそうに細められる。

……絶対にからかわれている。

世間では何事も完璧でクールな大企業の副社長で通しているのに、まるでいたずらっ子のような振る舞いに戸惑う。

この人は本当にいろんな表情をもっている。


「さ、先に入ります」


「じゃあここは俺に任せて」


そう言って、体よくダイニングルームから追いやられる。


「ああ、沙也。近々一緒に入ろうな」


冗談とも本気ともつかない台詞を背中からかけられて、息を呑む。

後ろを向いていてよかったと心底思った。

こんな熱くなった頬は見せられない。

聞こえなかったフリをして足早に廊下を歩く。

十代の学生でもないのに、一言一句を真に受けて、恥ずかしがるなんて馬鹿げている。

けれど見つめられ、名前を呼ばれて触れられると、感情がコントロールできなくなる。

急いで洗面所に入り、ドアを閉める。

今後私の心臓はもつだろうか。

自分の感情なのにうまく制御できず、はあ、と小さく息を吐く。


こんな状態で郁さんと同じベッドで眠れる?


ううん、それ以前に彼に抱かれる覚悟ができるの?


なにもかも承知してこの結婚を受け入れたはずなのに。


考えれば考えるほど緊張し、冷静さを失っていく。

私たちは心が繋がって求めあった夫婦ではない。


なのにどうしてこれほど感情が揺さぶられるの?
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