愛しのフェイクディスタンス



「降ろして下さい!」
「どうせ行き先は同じだから大人しくしているんだ、優奈」
「同じって」

 勢いだけで話していては優奈にも声を荒げてしまいそうだ。
 雅人はひとつ大きく息を吸って、吐き出した。

(そう遠くなかったな)

 これまでの数年、母親である沙苗から送られてきたメールは目を通したものやそうでなかったものもある。何となく知っている所在地を確認するべく、雅人は優奈に触れていないもう片方の手でスマホを取り出しながら『高遠一級建築設計事務所』と焦る指で打ち込んだ。
 文字として目にすると、途端に湧き出る逃げ出したい衝動を抑え込む。

 原動力は、もちろん形の定まらない怒りと、この優奈だ。
 お互い距離を置くようになってからも、雅人の中で優奈の存在が揺らぐことなどなかったし、目の前で関わってこなかった分、他の男との幸せを願えているつもりになれていたのだ。
 
(思い込みも甚だしいな)

 それが、どうだ。
 いざ目の前で優奈が他の男の手で幸せになって行くかもしれない事実を到底受け入れられはしなかった。

(思わせぶりなこと……か)

 昨晩の怒りや疑念に覆い尽くされた表情の優奈に言われた言葉は全くもってその通りで、否定などできない。
 そして今も、自分の感情を明確な言葉にできないまま優奈をこの手で押さえつけている。どうしようもなく情けなく自分勝手な人間だ。

(見合いだなんだ……あの男の言うことを間に受けてるわけじゃねぇぞ)

 それでも、今逃げたなら優奈はきっと、避けるなんて曖昧なこれまでではなく。
 確実に雅人への想いを消化させ、新たに人生を歩み出すんだろう。
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