愛しのフェイクディスタンス


「……私だって、変わりたいよ」

 優奈は、弱々しい涙声でその葛藤を言葉にする。

「……変えたいの。でも、わかってよ。ねえ、余裕ないの、貯金もないから」
「優奈」
「いずれそうするから、お願い放っておいて」

 これ以上”退屈な大人”だと実感させないで欲しい。

 優奈の、その言葉の後。しばらく続いた沈黙を破ったのは雅人。
 しかしこれまでの穏やかな声色ではない。
 どこか挑発的な、雅人の声色。

「……変わりたいと、言ったな?」
「そ、そりゃ」

 優奈が聞いたことのない、雅人の低く、目の前の相手を絡み付けて離さないような圧のある声。
 いきなり、どうしたというのか。

「だったら使えるものは使って這い上がれ。自分でもわかってるだろ、プライド云々言ってる場合じゃないんだよ、今のお前は。身体が悲鳴を上げてくれてるんだ、応えてやれ」
「でも」
「でもじゃない。手段なんて選べる時とそうじゃない時がある、当たり前だろう」

 昔から、雅人は優奈を恋愛対象として見てくれない代わりに、その他に関してはほぼ全てにおいて肯定的な、優奈の絶対的味方だった。

 今もそうだ。
 敢えて叱るような、圧のある言い方で、凝り固まった優奈の弱さを掬い上げる。

 泣きたくなどないのに涙が溢れてきて、咄嗟に隠したが。雅人はそんな優奈の手を取り、頬を伝う涙を拭った。

「優奈は頑張ってる。それも強さだよ、それでもな、逃げることだって強さなんだ」

 優奈だってそんなこと、嫌と言うほどにかわってる。逃げるべきなんだ。

 もういつから食事が喉を通らないんだろう。口に含んだ瞬間、胃が飲み込むことを拒否するように吐き出してしまう。
 信じたくないんだ。自分がそんなに弱い人間だなんて。嫌なことから逃げなければ生きていけない人間だなんて。
 どうしても信じたくなかった。

「仕事が……嫌なんて、みんな耐えてることじゃないですか」
「そうだよ。けどな、環境も様々で限界値もそうだ」

 涙を拭った手が、今度は優奈の汗ばんで、ベタベタしているであろう髪を撫でる。

「なあ、俺を使ってくれ、頼むから。お前のことが大切なんだ」

 "大切"

「……だったら」

 だったら、私の気持ちにどうして応えてくれないの。
 口走りそうになった声を飲み込む。
 これ以上惨めになんてなりたくないから。
 

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