愛しのフェイクディスタンス



「大丈夫です、私もボーッと歩いてたので」
「それならよかったです……すみません、ちょっと人使いの荒い上司達に煽られてたもので、本当に申し訳ない」

 可愛らしい顔とはアンバランスな低く男らしい声が、けれども少し落ち込んだ様子で謝り続け”人使いの荒い上司達が”なんて正直に話すものだから優奈は思わず、ふふっと笑みを零した。 

「それは大変ですね。お時間取らせてしまってごめんなさい」

 優奈はその男性が手渡してくれたエコバッグとその中身を受け取って小さくお辞儀をした。

「い、いえ! あの……あ、いえ。よ、よかったら連絡先を」
「え?」

 優奈が早々に立ち去ろうとすると、まるで引き留めるかのように男性は言った。
 どうして連絡先? なんて考えたものだから、それが顔に出てしまっていたのかもしれない。
 
「た、他意はありません! もし、後々どこか傷んだりしたら」

 慌てたように手をブンブンと振って否定する様子に、一瞬でも怪訝な表情を見せてしまったかもしれないことを反省した。そして、やはり可愛らしい男性だなぁと思いながら、彼の左手の中で震え続けているスマホがどうにも気になってしまう。

「歩行者同士ぶつかっただけですし気にしないでくださいね」
「……あ、はい」

 残念そうな声が返ってくる。見知らぬ相手を気遣ってくれる心優しい人のようだ。
 
「あとずっと電話鳴ってるので、上司の方かな? 早く出てあげてくださいね。それじゃ失礼します」

 ぺこりと頭を下げて、男性の隣を通り過ぎ優奈は雅人のマンションへ急ぐことにした。
 確かに雅人の帰宅は遅いのだけれど、かといって優奈は特に料理を作り慣れているわけではなく、それ自体は好きなのだがいかんせんスピードが遅い。
 早く帰って準備をしなければ! その一心。

 だから呼び止められる声にも全く気がつくことが出来ないでいた。

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