造花街・吉原の陰謀

11:暮れ戻り、明け渡る

「主郭から連絡があったよ。終夜が明依の手を引いてどこかに連れて行ったって」
「……それは、」
「アンタら、過保護過ぎるよ。〝かわいい子には旅をさせよ〟って知らないの?」

 終夜は明依の言葉を遮る様にそういった。
 心臓の音が、うるさい。二人の声に挟まれた自分の声だけが、酷く情けなく聞こえたのは、勘違いなんかじゃない。叢雲を前にした時の様なはっきりとした言葉が、出てこない。

「本命のいる遊女なんて、別に珍しくもなんともないだろ。仕事に支障がないなら、大目に見てよ」
「……自分がそうだって言いたいのか?」

 宵はゆっくり息を吐いた後、丁寧に確認するような口調でそういう。

「言葉の綾だよ。何、ムキになってるの?」

 そんな宵を、終夜は笑顔を張り付けたまま見ていた。

「どうして明依に関わろうとするんだ」
「それは逆だよ。アンタも聞いただろ。さっき確かにこの人は言ったはずだ。『終夜と行く』って」

 自分の思ったことを口にしたいと思っている。それなのに宵を前にして、大切な彼を酷く傷つけてしまったのでは、という罪悪感が胸の内を占めていた。

「俺は親切だと思うよ。アンタが甘やかして育てた世間知らずの遊女に、忖度しないで教えてあげてる。この街の厳しさも、汚さも」
「それを知って、何になる。何もかも知っておくことが正解じゃないよ。知らなくていい事もあるんだ」
「俺が守ってあげるから、って?だったら俺が正解だ。だってもうすぐ、アンタは死ぬんだから。可愛くて可愛くて堪らないなら、一人で生きていける様にしてあげないとね」

 飄々とした態度で当たり前の様にそういう終夜に埒が明かないと思ったのか、宵は明依の腕を引いた。

「……帰ろう、明依」
「でも……」
「アンタの思い描いている、仲良しごっこの未来にはならないよ」

 宵に向ける馬鹿にしたような冷たい口調とは、またどこか違う。それが自分に向けて言われているのだと理解するには、そう時間は必要なかった。

「今度はちゃんと、警告しとくよ。どう転がっても俺は必ずまた、アンタを裏切る」

 終夜は明依を見てしっかりとした口調でそういった。

「……俺と来る?どうせ同じ未来なら」

 この男は、何を言っているんだろう。ただ何となくその問いかけがいつも見ている終夜ではなくて、あの二人の見た〝終夜〟の様で。
 一体どんな裏切りがあって、一緒に行くと言った先にどんな未来があって。何も教えてくれないくせに、重要な選択を今すぐにと迫る。
 やっぱり、傲慢な男だ。

「私、」
「終夜さま」

 明依の言葉を遮ったのは、見覚えのない男だった。その男に表情はない。おそらく、観光客に紛れた(かげ)だ。

「招集です」
「……誰」
「暁さまです」

 終夜は一度目を伏せると、それから瞬きを一つして、明依を見た。射抜かれた様な錯覚。何か言わなければと思っているのに、言葉が喉元で絡まって、うまく吐き出せない。

「どうやら俺達も、生まれた星が違うらしい」

 終夜は薄く笑った後、踵を返して歩いて行く。
 その背中を追いかけたいと思うのは、間違いなんだろうか。自分がどうすべきなのかせわしなく頭を動かしているくせに、その答えは一向にわからないまま。終夜の背中を視線で追っていた。

「バイバイ」

 まるで後腐れのないように締めて幕を引くように、はっきりとそういう終夜は、すぐに観光客に紛れて、いなくなった。
 どれだけ視線を彷徨わせても、目を凝らして見ても、終夜はいない。

「明依」

 宵のその声に、はっとした。
 宵が掴んでいる手をはなした解放感で、かなり強く握られていた事に今初めて気が付いた。

「帰ろう」

 確認するようにそう言う宵に、明依は肩の力を抜いて「うん」と小さな声で答えた。

 自分が話したいと思った人と、話をしただけ。本当にただ、それだけだ。
 宵に対する感謝は前提にあって。それでも終夜を知りたくて。宵の前ではっきりと『終夜と行く』と、そういったはずだ。『撒いて』と自分から頼んで、終夜との時間を過ごしたはずだ。
 覚悟したはずだった。
 それなのに今、この胸を締め付けて仕方のない罪悪感を、どうしたらいい。

「……嫌な思いをさせてしまっているなら、ごめんなさい。私、あの二人の見た終夜を知りたくなったの」

 二人でしばらく歩いた後、明依は少し先を歩く宵に向かってそう言った。

「誰とどんな人間関係を作るのか、それは明依の自由だと思ってるよ。その気持ちは変わってない」

 宵がいつも通りの様子でそういう。

「旭と日奈の事で終夜に対して思う所があるのは、ちゃんと分かってる」

 いつも通り、宵が言いそうな言葉だ。

「……明依にとって、終夜って何?」

 先を歩く宵の表情は分からない。いつも通りだからさらに、罪悪感を誘発する。きっと宵も、言いたいことを堪えているに違いない。
 自分が拾った遊女が、自分を殺そうとしている男の事を知りたいなんて、バカげたことを口にしているんだから。

「ごめんなさい。……まだ、わからない」

 自分が宵に向けている感情は、何か。そう考えていたはずなのに、並行して終夜の言葉が頭の中を回っている。少し近付いたと思ったら、また遠くに離れて行く彼の事で、頭の中が埋め尽くされていく。
 造花街らしく、輪ゴムのついた水風船をただ、ぼんやりと眺めていた。

「疲れただろ。おやすみ、明依。ゆっくり休んで」

 宵はやはりいつもの様子でそう言う。明依は宵の背中に「おやすみなさい」と呟いたが、それが聞こえているのかどうかは分からなかった。

 宵は知っているんだろうか。叢雲が、旭を殺したという事を。いや知っているはずがない。伝えた方がいいのではないか。そう思ってすぐ、終夜の言葉を思い出してやめた。
 明依は宵に背を向けると、自室に向かうために歩き出した。

「おかえりなさい、明依」

 明依が顔を上げると、そこには優しい顔で笑っている吉野がいた。

「吉野姐さま……!」

 一瞬の内に心が浄化される様な、そんな感覚。明依は思わず、吉野に抱き着いた。

「ほんの少し見ないうちに立派になったのね。と言おうとしたのよ。でも、まだこうやって私に甘えてくれるなんて、嬉しいわ」

 吉野はそう言うと、そっとやさしく明依の背中に腕を回して抱きしめた。

「ただいま戻りました。……私、夕霧大夫と勝山大夫が大切なことをたくさん教えてもらいました」
「そう。ゆっくり聞かせてちょうだい」

 吉野は穏やかな様子でそういう。心の内が、ぽかぽかと温かくなる。

「それは、どうしたの?」

 どちらからともなく身体を離すと、吉野は明依の持っている水風船を見た。

「さっきまで終夜と一緒にいたんです。その時に、取ってもらいました」
「終夜くんと?」

 吉野は少し驚いた様子を見せたが、それから薄く嬉しそうに笑った。

「どんな人だった?あなたの見た終夜くんは」

 〝終夜〟という言葉に、明らかに胸が痛んだ。あの背中を見た時、追いかけたい衝動に駆られた。
 『私、』と口をついて出た言葉の続きは、自分にもよくわからない。いや本当は、分かっているのかもしれない。

「明依?」

 優しく心配するような吉野の声にはっとして、明依は自分が見た終夜という人間がどんな人だったのか、頭の中で思い浮かべていた。

「私、あの男に感情なんてないんだろうなって思ってたんです。でも、意外と負けず嫌いでした」

 明依は水風船を何度も何度も取ろうとする終夜の姿を思い浮かべていた。そして思わず、笑みが零れた。

「表情一つ変えないで、ずっと一人で黙々と水風船を取ってるんです。多分、本当に悔しいんだろうなって」
「……終夜くんに感謝しないといけないわね。久しぶりに見たわ。あなたのそんな顔」

 変な顔をしていただろうか。そんな明依の不安をよそに吉野はそれはそれは嬉しそうな、花が咲いた様な笑顔で、明依の頬を両手で包むように触れた。

「日奈と旭くんの事を話して聞かせてくれる、私の大好きな明依の顔よ」

 明依は驚いて、声も出なかった。自分がそんな顔で話をしていたなんて、全く意識していなかったから。

「私はそばであなたを見ていて思っていた。自分の為じゃなくて、誰かの為に本当の力を出せる子なんだろう、って。あなたの本当の気持ちが、終夜くんにちゃんと伝わるといいわね」

 目に涙が溜まっていく。自分の中で不安定に揺れ動いている何かが倒れない様に、そっと触れて支えてくれた気がしたから。
 やはり自分を信じるというのは、難しい。
 明依は俯くと、さっと涙を拭った。

「もう寝ましょう。明日は早いわよ」
「早いって?」
「朝、あなたの部屋に迎えにいくわ」

 吉野はそう言うと、踵を返して去っていった。明依は何のことかわからなかったが、深く考える事をやめて風呂に入ってから、早めに布団の中に入った。





「おはよう。いい朝ね」

 朝鳥でも鳴いたのかと思う程爽やかな声で、吉野はそう言いながら明依の部屋の襖を開けた。

「……朝?」

 明依はまだぼんやりした意識の中、身を捩って這うような体制になった後、やっとのことで上半身を起こした。
 吉野は明依の部屋の中に入ると、障子窓を開け放った。

「……眩しい」

 眩しいが、うろたえる元気もない明依は、とりあえず目を閉じて障子窓から目を逸らした。
 外は明るいのに、聞きなれた観光客の声がしない。今、何時だ。
 そんな思いで明依は、ゆっくりと目を開けながら吉野に視線を移した。

「5時よ」
「……5時?」

 ほとんどの人間が5時なんて起きていない。
 じゃあ、朝じゃない。
 つまり、今は夜だ。
 なんでこんな早くに起きないといけないんだ。と思っている時点で〝早朝〟という認識があると分かっていた。気持ちのやり場に困って泣きそうになる。

「私と一緒に、散歩でもどう?」

 朝5時から散歩なんて、どこのご老人だ。

「行きます」

 目の前で爽やかな笑顔を向ける吉野の誘いを、まだ寝たいなんて理由で断れる訳もない。
 明依はさっさと準備を済ませて、満月屋の中を歩いた。もう外は明るいのに、人気がない。

「おはようございます」

 やっとすれ違った従業員が少し声を潜めてそういう。吉野も明依も同じように返事をした。結局満月屋の外に出るまでにすれ違った従業員はたったの数人。外はもう、こんなに明るいのに。
 馴染んだ場所で人に気付かれない様にこそこそしているなんて、なんだか小さな妖精にでもなった気分だ。この妓楼の誰も知らない心が躍る秘密を、覗き見ている様な。

 吉原の外の店は、どこも閉まってる。夏祭りの騒がしさが、まるで嘘の様だ。道にはほとんど誰もいない。明るいのに誰もいない。それがまるで自分がこの吉原を貸し切っているような、贅沢な気がする。

「吉原の街にも、いろんな顔があるでしょう」
「……はい、驚きました」

 真夜中とはまた違っている。こんなに見る景色が違うのかと、感動すらしていた。

「おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます」

 開店の準備をしている店員と挨拶を交わしながら、明依は吉野と一緒に静かな吉原の街を歩いた。

「吉原の街は確かに窮屈かもしれない。だけど、探そうと思えばいくらでも、自分の周りに新しい事を探すことが出来る。あなたの心次第でこの街は、狭くも広くも見える。あなたの心次第で物事は、形を変える。覚えておいて」
「はい」

 明依はしっかりと一度、頷いた。
 やはりこの街は美しい。この街にいる自分がなんだかほんの少しだけ、誇らしく思えた。

「今日のお昼は?」
「特に何もありませんけど」
「じゃあ、私とお出かけしましょう。後で清澄さんがいらっしゃるから、その時にまた」

 30分ほどの散歩を終えて満月屋に戻ると、吉野はそういった。

「わかりました。また後で」

 眠気はもうない。それどころか、本当に気分がいい。仕事の時には当たり前に入る朝の風呂も、なんだか特別だ。誰もいない空間を貸し切った、一番風呂。上がって、丁寧に身だしなみを整えて。
 それでもまだ、時間はたくさんある。なんだか得をした気分だった。

 昼になり明依が一階におりると、既に吉野と清澄がいて、二人は楽し気に話をしていた。

「おはよう。明依ちゃん」

 先に明依に気付いた清澄がそういう。それから吉野も、こちらに顔を向けた。

「おはようございます。清澄さん」
「明依ちゃん。なんだか調子がよさそうじゃないか。いい事でもあったのかい?」
「早起きしたら、なんだか気分がよくて」
「そりゃいいね。俺なんて昨日は、時雨くんと深酒しちゃってね……」

 そんな話をしながら、三人は満月屋の外に出た。
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