シンガポール・スリング

カフェを出た時は怒りで何も見えなくなっていたレンだったが、1週間経った今、自分の中には空虚さしか残っていなかった。
もし一瞬でも未希子が振り返っていたら、レンは車から飛び降りていたに違いない。
でもレンは今、こうして車にいる。

どうすればよかったのか。
他に方法があったのか。

わけもわからない敗北感を嚙みしめながら、シートに身を沈めた。
会合の後、AWCに戻ってきたがもちろん彼女はもうそこにはいなく、受付からカフェの従業員だという方から預かった傘を手渡された。レンはありがとうとほほ笑んで受け取ると、受付嬢は恥ずかしそうに一礼した。
5時まで仕事を淡々とこなしていたが、レンの中で何かが間違っていると小さな警告ベルが鳴り響いていた。レンはその得体のしれない考えを脇に押し込め実家に戻ると、両親はもう出かける準備が整っていた。

「急に呼び出して悪かったな」

「いいえ、かまいません」

「アーベレ日本法人専務の宗像さんと会合でお会いした時、夕食でもという話になってな」

「そうですか」

「・・・宗像さんは二人の娘さんがいらっしゃって、一人は常田製薬の常務と2年前に結婚されたとかで、下の娘さんはまだだそうだ」

「・・・・・」

「先月留学先から帰ってきたらしく、今は花嫁修業中らしい」

レンは無表情のまま出かける準備をしますと言ってその場を離れた。その後ろ姿を父親のウェイ・リンは黙って見つめていた。

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