シンガポール・スリング
母親のシャン・ウーは久しぶりに三人がそろって出かけると浮かれており、レンの表情が徐々にこわばっていくのに気付いていなかった。母親は新しく買ったというマノロ・ブラニクのベージュの靴を玄関脇で履き、姿見で確認しながら嬉しそうに夫のウェイ・リンを見上げた。
「今日はまた一段ときれいだな」
ウェイ・リンは目を細めながら、シャン・ウーの腰に手を置いた。
シャン・ウーはクッと片方の眉毛を上げるとウェイ・リンに目をやって、ネクタイの微調整をしながら微笑んだ。二人の様子を見ながら、レンはこれから会う女性と両親のような関係を築き上げることができるのだろうかと考えた。
未希子となら・・・彼女となら容易に想像できる。
自分の家でコーヒーを淹れる姿。
バタバタと走り回る姿。
玄関先で見送りのキスをする姿・・・。
レンは長いまつげを伏せ、いろいろな未希子を想像し物思いにふけっていた。
「レン?」
気づくと母親のシャン・ウーが心配そうにレンを見上げていた。レンは無理やり笑顔を作ると、父さんが言うように今日は素敵ですよと母親を抱きしめた。ウェイ・リンは出発の時間だと告げると3人は待たせてあった車に乗り込んだ。肘を窓枠にかけて、車窓から流れる街をぼんやりと眺めた。
数か月前まで、結婚はビジネスの延長線だと信じていたし、その時期になれば見合いをして結婚することに何の抵抗もなかった。レンにとってそれは当たり前のことだと信じていた。
未希子と出会うまでは。
20分後、車はホテルのエントランスに到着していた。
車から立ち上がった時、ポケットにある携帯が着信を告げた。スクリーンを見ると祖母からだった。レンは大きくため息をつくと、メッセージで今は忙しいことを伝え、ポケットにしまった。
ホテルの14階にあるフレンチのレストランは普段予約なしで入ることはできないが、いくつか特別テーブルが確保されていて、ウェイ・リンが連絡するとすぐに席を予約することができた。
「宗像さん、遅くなってすみません」
席にはウェイ・リンとそれほど変わらない年齢の男性と20代前半ぐらいの女性がすでに席に着いていた。二人は立ち上がり軽く会釈をし、ちょうど来たばかりなので気にしないでくださいと言いながら、手を差し出した。