◇水嶺のフィラメント◇
 一方空き家に(つど)った面々も支度を整え、まもなく出発しようという頃合いであった。

「では、参りましょう、姫さま」

「は、はい」

 差し出された侍女の掌に、パニならぬ「姫さま」は緊張気味に自身の手を乗せた。導かれるようにしずしずと戸口を目指す。

 アンの旅支度を(まと)ったその身は、リムナト国民が愛用するベージュの外套(マント)に包まれている。

 フードを深く被ってはいるが、メティアが用意した黒く長い義髪で念入りに短い茶髪を隠していた。

 パン屋を訪れた兵士二人は既に王宮へ向かったので、一行はパニとフォルテ、更に侍従二名に兵士三名の計七名だ。

 北境のルーポワ検問所では、メティアがアンに話したリーフも待っている。

 彼はルーポワ出身であるので、検問所を容易に通過する(すべ)も心得ているという。

 パニにとっては兄貴分、メティアにとっては一つ年下の弟分といった立ち位置の青年である。

 空き家を一歩外に出れば、街灯に照らされたあちらこちらで、自分をアピールする娼婦のなまめかしい声やら、酔いの回った男共が値踏みするいやらしい声が飛び交っている。

 一行はそんな猥雑(わいざつ)な光を浴びぬよう物陰を辿りながら、やがて郊外へ抜けた。

 あとは真っ直ぐルーポワとの国境へ向けて山道を登るのみである。

「……姫、さま……」

 兵士と侍従に挟まれた列の中で、フォルテは来た道を一度だけ振り返った。

 黒々とした遠望に一点、きら星の如く輝く王宮を見下ろした瞳は、薄っすら水の膜に覆われていた──。


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