元勇者は彼女を寵愛する
「この世界って、こんなにたくさんの人がいたのね」
「まあ、三ヶ月間僕と二人だけの生活だったからね。やっぱり人が多い方がいいかい?」
「いえ、そんな事は無いんだけど……とにかく、ヴァイスはしっかり顔を隠してね。あなたのそのイケメンが一番目立つんだから!」

 私はヴァイスの顔を隠すようにフードをグイグイっと引っ張った。その時だった。

「誰かぁ!!その人捕まえて!!」

 突然鳴り響いた叫び声。
 一人の男が行き交う人達にぶつかるのも構わず、こちらに向かって物凄いスピードで走ってきていた。
 えっ!?ぶつかる!!?
 そう思った瞬間、私はヴァイスに肩を掴まれて一気に抱き寄せられた。私が立っていた場所を、男が勢い良く通り過ぎた。

「泥棒ぉ!!誰か捕まえてぇ!!」

 泥棒ですって!?今の男が!?

「捕まえないと!!」

 私が動こうとしたその時、ヴァイスの体から一瞬だけ淡い光が放たれた。

「うわあああああああ!!?」

 聞こえてきた叫び声の方向へ目を向けると、さっきの男が派手に転んでいた。慌てて起き上がろうとするが、またツルっと足を滑らせて転んだ。
 これってもしかして……。
 私はこの現象を引き起こしているであろう人物にちらりと視線を向けた。
 ヴァイスはいつもの柔らかい笑顔を浮かべて人差し指を口に当てている。
 知らないふりしろって事ね。

「捕まえろ!!」

 やがて異変に気付いて駆けつけてきた警備の人間が男を拘束し始めた。

 人々がその様子を見守る中、一人の幼い少年がキョロキョロと辺りを見回しているのが目についた。もしかして迷子かしら?
 次の瞬間、なんと少年は貴婦人の鞄から財布を抜き取り走り出した。
 とっさに声を上げようとして私は踏みとどまった。目立つ行動は避けないといけない。
 だけどあんな小さな子が盗みを働く所をみてしまったら、勇者の彼女として黙っていられない。

「あ、リーチェ!?」

 突然走り出した私の後ろからヴァイスの声が聞こえる。
 ヴァイスごめん!!
 私は振り返る事無く少年の後ろ姿を追いかけ、薄暗い路地裏へと入って行った。
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