仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない
冷静に告げる大知を前に、杏の鼓動は早鐘を打ち始め、終いには顔は真っ赤になっていた。
大知は医師の卵として、杏を気にかけているのだけなのに、こんなふうに他人に、しかも男性に間近で触れられるのは初めてで、完全にパニックになっていた。
だからつい、口走ってしまったのだ。
「あ、あの……! たったこれだけでわかるなんて、すごいですね! さすがお医者さん!」
そう叫ぶと、大知は困ったように首を掻いた。
「いや……俺はまだ医者じゃないし、なるとも決めてない」
「そうなんですか? じゃあお医者さんになったら私のこと、診てくださいね」
目を潤ませ、必死に訴える杏を見て大知はクスッと笑った。
「あぁ、そうだな。いつかな」
そして杏の頭をぽんっと優しく撫でると、目を細め、僅かに笑った。素の表情とのギャップに、杏はあっさりと恋に落ちてしまったのだった。
「雨がひどくなりそうだ。中に入ろう」
「は、はい」
大知は着ていたジャケットを脱ぐと、杏の上にそれをタープのように張ると中に促した。その勇ましい姿に、さらに胸が弾んだ。
「あ、あの。ありがとうございます」
「気にするな。行こう」
遠慮がちに頷き、杏は一歩踏み出した。だが次の瞬間、くるっと視界が反転した。雨で石段が濡れていて、足を滑らせたのだ。
「きゃっ」
「危ない」
小さな体が宙を舞う。空が遠くなり、木々がゆっくり揺れている。視点が空に向き、雨が針のように落ちてくるのがわかった。
池に落ちる。そう思った瞬間、背中に温もりが走った。大知が咄嗟に杏を受け止めてくれていたのだ。背中から抱きしめられ、顔の真横には大知の精悍な顔があった。それに気づいた途端、一気に赤面した。
「す、すみません」
慌てて態勢を整え大知に謝る。それと同時にあることに気付いた。
「あっ、あの足が!」
言いながら、大知の足元を指さす。大知は杏をかばったせいで、片足が池に落ちていたのだ。