仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない
仕立ての良さそうなスーツのズボンは濡れ、靴もびしょびしょ。杏の顔面はさらに青白くなった。
「どうしよう……お父さんに言って……」
「このくらい平気だ。気にするな」
大知は池からざぶっと上がると、再度杏を中へ促した。ぶっきらぼうな言い方だが、優しさを孕んだものだった。
「君が落ちなくてよかった。明日熱が出るかもしれない。安静にしてろよ」
「は、はい……」
杏はぺこぺこと何度も頭を下げ、お礼を言った。その胸中はドキドキと高鳴り、さっきまであんなに寒かったのに、全身はいつのまにか火照っていた。
これがきっかけで、杏にとって大知は特別な存在になった。しかも大知が宣言した通り、杏は翌朝から寝込み、熱は一週間ほど続いた。
だがその間も、頭の中は大知のことでいっぱいだった。
それからというもの、こういう会食の場で大知に会えば、その度大知を目で追い、あいさつ程度だが、会話するたびに胸を弾ませた。
そんな憧れの大知が、まさか自分の夫になるなんて夢にも思わなかった。
でもそんな夢のような生活も、あとわずかで終わってしまう。自分で決めたこととはいえ、すでに涙がこみ上げてきそうだった。