仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない


 挨拶一つにしろ、箸を持つ仕草にしろ、何をするにしても所作が綺麗で、大人の男の雰囲気が漂っている。あのとき助けてもらった日から何年もたっているのに、気持ちは色あせることなく、むしろどんどん好きになっているような気がしていた。

 そんな憧れの彼と夫婦になるかもしれない。想像しただけで、胸が歓喜で張り裂けそうだった。だが杏は緊張で顔すらあげられず、言葉も発せない状況だった。

「少しふたりで話してきたらどうだ?」

 そんな杏を察したのか、食事を終えたところで拓郎が大知にそう提案した。萎縮する杏を、不憫に思ったのだろう。大知は杏の方に視線を向けると「ちょっと出ようか」と席を立ち杏を手招いた。

 慣れない着物で足を取られながらも、ふたりで綺麗な庭を散歩する。テレビや漫画でよく見る、見合いの席での光景。まさか自分がこんな経験をするとは想像もしなかった。しかも相手は初恋の人。杏は来たときより緊張が増していた。

「大学院に進学したんだって? 慣れた?」

 すると大知が振り向きざまに切り出した。

「はい、なんとか……」
「最初に会ったときは、まだこんなに小さかったのにな」

 ふっと口角を上げると、手を自分の腰あたりにかざし、小さかった頃の杏を表現する。杏自身もまだ信じられなかった。まさかこんな未来が待っているなんて。あのときの杏が知ったら、卒倒してしまうだろう。

「よかったの? 俺と見合いなんて」
「も、もちろんです」

 もごもごと口もとを尖らせながら、なんとか言葉を紡ぐ。ここに来たのは自分の意志。決して誰かに無理強いされたわけではない。むしろ、どうして大知は杏と見合いをしたのか気になっていたが、杏は聞くことはできなかった。

「そうか。じゃあ俺と、結婚してくれ 」

 青く澄んだ空に赤とんぼの群れが飛ぶ中、大きくうなずいたことを今でもはっきりと覚えている。

 それから五人で入籍日、新居など、これからのことを話し合った。あっという間だった。結婚というものが、こんなにもあっさり決まってしまうものかと、驚いていた。でも大知の両親も、明も安堵しているように見え、杏はホッとしていた。

 大知とこれから仲良くやっていこう。素敵な夫婦になりたい。うまくいくかわからないけど、不確かな未来に怯えて、目の前のチャンスを手放したくないと思ったのだ。

 だがその矢先、杏は大知と拓郎の会話を聞いてしまう。杏がお手洗いに立ったその帰りのことだった。廊下の隅のほうで、ひそひそと話す声がしたのだ。

「お前はこれから上に立つ人間だ。そのためには所帯があった方がいい。さっさと入籍まで済ませよう。まだちょっと幼いが、家柄も申し分ないし、なにせ優秀なあの北条先生の娘さんだ。心配いらない。これでお前の将来も安泰だ」



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