仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない
 


 大知はきっと、その温かい心と、溢れる知性で、あの病院をこれからももっともっと繁栄させていくに違いない。

 すぐに再婚ということになっても、おかしくない。きっと拓郎が、良い人を見つけてくるだろう。

 そしたら、今度はその人にそうやって優しく声をかけるのだろうか。あの部屋で、甘いひと時を過ごすの?

(あれ、やだな……。覚悟してたはずなのに……)

 お酒も入ったせいか、視界がジワリと滲む。涙が出そう。

「考えたんだが、このマンションは杏に譲ろうと思う。それと残りの学費は、俺に援助させてほしい」
「そんな、そこまでしてもらう必要はありません」
「いいんだ、そのくらいさせてほしい。杏を傷つけてしまって申し訳なく思ってる。この通り、俺は愛想がいいわけでも、口がうまいわけでもない。杏が愛想つかすも当然だ」

 違う。愛想をつかしたんじゃない。好きだからそうするんだ。

 そう、喉元まで出かかったが、なんとか飲み込む。

「離婚届けは、俺が出しておくよ」
「はい……お願いします」

 声が僅かに震えている。グラスの中に浮かぶワインには、涙を堪える自分の顔が映っていた。

 今顔を上げればバレてしまうかもしれない。それじゃあ元の木阿弥だ。杏はぐっと唇を噛みしめ、気を取り直した。



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