仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない
確かにあの日、拓郎はそう言った。だがあのあと、大知は反論していたのだ。
『杏だから結婚する。家とか関係ない』と。杏は聞くのが怖くて逃げだしてしまったが、大知の意志はあのときから、ハッキリとあったのだ。
「杏、もう寂しい思いはさせない。杏の夫にふさわしい男になってみせる。だから、ここからやり直さないか? 俺たち」
杏の手を固く握り、必死に乞う。誰かを想って、こんなふうに一心不乱になったことがあっただろうか。今の大知は、プライドも何もかも捨てた、ただの一人の男。
「でも私は、もうすぐ北条病院の令嬢でもなんでもなくなります。それでもいいんですか?」
「それはどういうことだ」
矢継ぎ早に問えば、杏が今にも泣きだしそうな声音で話し始めた。
「実は、父から病院をたたむと連絡を受けました。大知さんに迷惑がかかると思って……だから私」
そこまで告げると、大知は絶望を飲み込んだような顔で固まっていた。そしてすぐに、くしゃっと悔しそうに頭を掻いた。
「なるほど、そういうことだったのか。気づいてあげられなくてすまなかった。でも、そんなの関係ない。俺はこれからも杏に傍にいてもらいたい。何があっても杏を守ると誓う」
「大知さん……」
「好きだ。杏」
言い終えた刹那、大知は杏の腕を掴み引き寄せると、掻き抱いた。もう離さないと言わんばかりに、強く胸の中にしまいこむ。
「ちゃんと夫婦になろう。辛い想いをさせて悪かった」
言葉にならず、大知の胸で、涙に濡れた顔を何度も首肯する。
ひどくもつれていた糸が、解けていく。結婚までがめまぐるしく、お互いの気持ちを確かめ合う暇すらなかった。
もつれにもつれ、自身の中で勝手な憶測が広がり、深みにはまっていった部分もある。
危うく間違った選択をしそうになっていたけれど、もう同じ過ちは犯さない。それを知らしめるかのように、強く強く抱き合った。二人の胸には、これまでにない幸せな気持ちが広がっていた。