仮面夫婦のはずが、怜悧な外科医は政略妻への独占愛を容赦しない
「がっついて悪かった。身体は平気か?」
「はい。大丈夫です」
ゆらゆらと揺れる水面をみつめたまま、静かに答える。大知はさっきから、杏の首筋や耳に、執拗にキスしてくる。
彼がこんなにも甘い人だなんて思わなかった。普段、感情が表に出ず、すごくわかり辛いだけに。
「そういえば、閉院したら、お義父さんやスタッフはどうするんだ?」
「お父さんはもう引退すると思います。スタッフの人は、お父さんが新しい就職先を紹介すると言ってました」
「そうか、少しもったいないよな。確かな腕があるのに」
「でも無理に続けても負債が増えるだけですし」
病院はつぶれないなんて言われてる時代もあった。でもそんなの、神話みたいなもの。
杏が小さい頃は、あの病院もたくさんの人が明を頼り、訪れていた。夜八時頃まで診療が続くこともあった。けれど、今ではすっかり活気を失い、訪れる人もかなり減ったと、志乃が言っていた。
これも時代の流れだ。仕方ない。みんな新しいものが好きだから。
「お父さん、寂しいだろうな。この前帰ったときは無理して明るく振る舞ってる感じで、見てる方が辛かった。大学病院にたほうが、よかったんじゃ……」
今さら十数年も前のことを言っても仕方ないのに、つい弱音が漏れてしまった。
「何言ってるんだよ。大学病院を辞めたのは、杏のためだろ?」
「え?」
大知が予期せぬことを言い出し、驚きながら振り返る。