夫の一番にはなれない
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【來side】
「來さん、ちょっとだけ、いいですか?」
あの日、玄関先でヒロコに呼び止められたとき、まさかこんな胸のざわつきがあとを引くとは思わなかった。
彼女――いや、彼――ヒロコは笑顔を浮かべながら、ほんの少しだけ近づいてきた。
そして、誰にも聞こえないような低い声で、さらりと、こう言ったのだ。
「俺、女もいけるんですよね。実は昔、奈那子のこと、好きだった時期があったんですよ」
――一瞬、時が止まったような気がした。
ヒロコはいたずらっぽく笑って、「今は全然だけど!安心してくださいね〜」と肩を軽く叩いて去っていった。
だけど、俺の中に残ったのは、安心ではなかった。
むしろその逆。妙な焦りだった。
昔、奈那子のことが好きだった――その言葉が、ずっと頭に引っかかって離れない。
奈那子がどれほど魅力的なのか、誰よりも知っている。
俺だってその笑顔に救われたから、そばにいたかった。
結婚という手段でようやく手に入れた彼女との日常。
でも、過去に奈那子を好きだった人間が、今も彼女の近くにいるとしたら。
しかも、奈那子に気安く触れ、冗談めかして好意を口にするような距離感で――。