秘夜に愛を刻んだエリート御曹司はママとベビーを手放さない
(今日はスーツじゃないんだな。お休みだったのかな?)
 彼は日曜日でもスーツ姿のことが多い。知的な雰囲気を漂わせているし、きっと忙しい仕事なのだろうと勝手に想像を膨らませていた。
 団体でやって来た年配の客にコレクションの説明をしながらも、意識はどうしても彼に向いてしまう。

 初めて彼を認識したのは、一年ほど前のこと。
 とても静かなのに、彼のオーラは人目を引きつける。清香も魅せられたひとりだ。
(――世の中にはこんなに美しい人がいるんだ)
 名画を前にしたときの、あの思わず身震いしてしまうような感覚、彼にもそれを感じた。圧倒され、息をするのも忘れて見入ってしまった。

 彼はひとりでゆっくりと芸術を楽しみたいタイプらしい。
 この美術館はマニア向けなだけあって、知識が豊富で学芸員との深い会話を楽しみたい客も多いが、彼は違った。清香もほかのスタッフも、言葉を交わしたことは一度もない。
『青磁器がお好きなんですか?』
『まだまだ暑いですね』
 頭のなかでのシミュレーションは完璧なのに、実際に清香の口からその言葉が紡がれることはない。彼の背中をチラチラ見て、足踏みするばかりだ。

 閉館を告げるいつものメロディーが流れ出すと、思わず大きく肩を落とす。
(うぅ、殻を破るなんて威勢のいいこと考えたくせに、結局これだ)
 臆病者の自分が心底情けない。
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