秘夜に愛を刻んだエリート御曹司はママとベビーを手放さない
 日本には海の美しさで知られる場所はたくさんあるが、この碧はちょっと別格だ。そんなふうに思った。
 そこで、はたと気がついたように彼は笑う。
「そういえば、自己紹介もしていなかったな」
 以前は尾野美術館では従業員は名札をつけるルールがあったのだけれど、数年前に廃止になった。ストーカー防止の観点からだと説明を受けた。若い女性従業員の多いデパートなどでは、たびたび問題になっていたらしい。彼はいつもひとりで来館していたから、清香も彼の名を知らない。

「そう……ですね」
 一瞬、名乗ることをためらってしまった。自己紹介をし合うことで現実に引き戻されてしまうような気がしたから。いや、それは建前かもしれない。
 プライベートジェットを所有するような人物だ。大河内家とつながりがあってもおかしくはない。名乗ったら、のちのち面倒なことになるかも。そんな小賢しい計算も頭をかすめていた。

 そのためらいを、鋭い彼は察したのだろう。ふっと薄く笑む。
「なにかワケありみたいだな。いいよ、名なしのふたりのままにしておこう。考えようによっては、このほうが特別感があっていい」
 心を軽くしてくれる気遣いに胸が温かくなる。
(あぁ、やっぱり思っていたとおりの……ううん、それ以上に素敵な人)
< 36 / 181 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop