秘夜に愛を刻んだエリート御曹司はママとベビーを手放さない
 千佳と駒子が廊下の奥に消えてしまうと、水を打ったような静けさに包まれる。
 言われたとおりに屋敷を進むが、誰ともすれ違わないし、人の気配もない。

(あれ、左に曲がるんだっけ? 右?)
 似たような障子と襖が延々と続いていて、まるでからくり屋敷だ。ひとりで大丈夫なんて言ってしまったことを今さら後悔する。完全に迷子だ。
(違う部屋を勝手に開けたら、怒られるよね)
 駒子の能面が鬼に変わるところを想像して、思わず身震いする。

 広い空間にひとりきり。寂しさとみじめさが、余計に胸に迫ってくる。
(私、こんなところでなにをしてるんだろう?)
 肝心の昴はいないのだ。駒子は気を使って言葉をにごしてくれたようだが、きっとさけられているのだろう。志弦の口から清香の素行を聞いたのかもしれないし、最初から不本意な縁談だった可能性もある。清香が父に逆らえないように、昴も祖父の遺言に強く出られないのではないか。どちらにしても、歓迎されない花嫁には違いない。

 小さくため息をつく。その背中に声がかけられた。
「誰だ?」
 反射的に振り向くと、角のところに長身の男性が立っていた。
「あっ……」
 それきり言葉が続かない。
(どうしよう。昴さんはいなくて、志弦さんがいるなんて……考えてもいなかった)
 じっとこちらを凝視しているのは志弦だ。仕事帰りなのか、ダークグレーのスーツ姿だ。
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