秘夜に愛を刻んだエリート御曹司はママとベビーを手放さない
 ボストンバッグを胸に抱え込む。
「今、迷っていただろう? 一年近く住んでいる俺でも迷いそうになる屋敷だ。だから――」
「大丈夫ですから!」

 逃げるように身をひるがえすと、背中に彼の声が飛んでくる。
「手前から三番目の部屋だ。襖に蓮の花が描かれている」
 礼を言う余裕はなかった。彼の言葉で頭がいっぱいだったからだ。
(ここに住んでいる、そう言ったの?)
 
 花嫁修業の期間は三か月、年を挟んで一月まで、清香はこの屋敷に滞在することになる。修業の具体的な内容は、想像していたよりずっとまともだった。

 大河内家の歴史や事業、人間関係を覚えること。茶道、華道、日本舞踊、テーブルマナーなどの良家の妻としての教養を身につけること。そういったものを駒子がつきっきりで指導してくれるらしい。
「一般企業の新入社員教育みたいですね」
「まさしくそのとおりです。大河内の奥さまは重要な役職のひとつですから」

 社長や部長などと同じポジションのひとつ。駒子はそう考えているようだった。実際、これだけの名家だとそういう考え方が主流なのかもしれない。茉莉も似たようなことを言っていた覚えがある。

「料理は、人並みにはこなせるようですね」
 店の厨房のような広さのある台所で清香が包丁を動かすのを見て、駒子は言う。人並みにというところに若干のトゲを感じたが、一応合格をもらえたと思っていいのだろうか。
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