ぼくらは薔薇を愛でる
王の執務室を出た二人は、一番近い談話室に来た。
夕方になりかけの、柔らかい日差しが室内に差し込んでいた。談話室に入ってすぐに鍵を閉めたジョブズは、ソファの手前で立ち尽くすエクルの手をとって跪いた。
「あの……」
「エクル・ローゼ・ド・ローシェンナ様、私の妻になってください。あなたがどうしようもなく好きなのです。屋敷の庭に、中庭と同じような薔薇の温室をお造りします、そこで私と共に、子や孫達と共に、末永く薔薇を愛でていただけませんか」
跪いてエクルを見つめて一気に伝えてきた言葉は、エクルが最も欲しい言葉だった。
――本当に?
「エクル様?」
ジョブズは少し返事を待ったが、エクルは虚ろな目でどこかを見つめたまま一言も発さない。失敗したか? とほんの少しの不安が湧いてきそうな時、泣きそうな顔をしたエクルが、跪いたままのジョブズの首に抱きついてきた。
焦り立ち上がれば、首に抱きつくエクルを抱き返すためにジョブズは背を屈める姿勢になる。
「わっ、私でいいの」
背伸びした状態で首に抱きついたまま声を絞り出す。
「あなたじゃなきゃ嫌です」
エクルの背中に手を回して宥めるようにさすれば、首に回った腕は解けて、ジョブズの胸に寄りかかり、おでこをくっつけてきた。
「おっ王女だけどちっともお淑やかじゃないのよ」
「よく存じ上げておりますよ、今更です。毎日が賑やかで楽しそうだ」
ふふっと頭上で笑う気配がして見上げればジョブズと目が合った。その嬉しそうな笑顔に射抜かれ、照れから再びジョブズの胸に顔を埋めた。
――ジョブズのここ、心地いい……
「……あっ、胸小さいし」
「本当でございますか、では今すぐ確認さ――」
「ばか」
抱きしめていた腕を解いてエクルの胸の前に手を持ってきたジョブズに、思わず手を伸ばして頬をペチッと叩いた。本当に打つつもりはなく、これを口実にジョブズの顔を見たかった。その頬に触れてみたかった。これまで隣で歩く姿は何度も見た。手だけなら数えきれないくらいに握った。だが、抱きついた事はおろか身体に触れる事はなかった。金色の髪に、深緑の瞳は優しくエクルのみを映していて、頬はエクルに微笑む表情を作る。そろそろと頬を撫でるエクルの手は、やがてジョブズに捕らえられた。
「手だって、きれいじゃないし……」
捕らえられた手を引くが、離してくれない。
薔薇の手入れ時は革手袋をしているが、どうしたって手は荒れてしまう。もちろんハンドケアを怠ったりはしていないが、ごく普通の令嬢の、白魚のような手と隣り合わせで差し出せば、その違いは明らかになるくらいには荒れていた。この手が恥ずかしいわけじゃない。だが、好きな人に触れる手は少しでもきれいでいたい。
「好きですよ、働き者の手だ。これをバカにする者がいたらこの私が赦さない」
そんなエクルの気にしている手を好きだと言ってくれるジョブズ。手のひらに落とされる口づけのこそばゆさったらなくて、エクルは一瞬身じろいだ。
「せっ、背も低いしっ」
「何の問題もありません、ほら、抱き締めるのにちょうどいい」
口づけのために取っていた手を離し、頭から腰まで腕を回してエクルを大きく包んだ。いまジョブズの背中側に誰かが来てもエクルが抱きしめられていることなどわからないだろうくらいに、ジョブズの身体はエクルを包んだ。どちらのものかわからない鼓動が聞こえ、響いてくる。
「他に心配な事はございませんか?」
エクルは背中に腕をまわし、必死にジョブズに抱きついた。
「私は王女だから、幼い頃から、どこかの国の王子と結婚するんだって、それが義務だと思ってきたの。だから、突然好きな人、と結婚していいなんて言われて、正直戸惑ってる……だけど、とても嬉しい……」
パッと見上げてきたエクルの可愛さと、彼女の発した言葉を聞いて、ジョブズは片手で顔を覆って天を仰いだ。
「ジョブズがずっと好きだったの、大好きなの……だから、さっきの返事だけど、『諾』よ。喜んで――!」
窓の外の木々が、風で大きく揺らいだ。