薄幸ノ人妻ハ妖シキ鬼ノ愛ヲ知ル

***

 私の実家はどこにでもある問屋の一つ。順調に事業を拡大していたけれど、恐慌のせいで経営は大きく傾いてしまった。このまま夜逃げするしかないのかとお父様が考えていたある日、手を差し伸べてくれる神様のような人が現れた。それが華村洋蔵(ようぞう)様。

 華村様は我が家に投資すると約束してくれた。しかしその代わりに、娘を一人、華村家に嫁がせるようにとお父様に伝えたらしい。お義母様はその話をとても喜んでいた。だって、家業を助けてくれて、厄介者だった前妻の娘である私を追い出すことも出来るのだから。私はその話を断ることもできず、ただ言われるがまま嫁ぐ支度をして、逃げるように実家を後にした。

 この時の私は、悪い話ではないと思っていた。実家では私の居場所はなかったけれど、きっと華村様は私を妻として大事にしてくださると信じていた。

 私の旦那様となった華村洋蔵様は、私とは二回り年が離れた実業家。一度婚姻歴があるが、夫婦仲が上手くいかず離縁してしまったらしい。実家のお父様は、私が華村家の後継ぎを産むことをとても期待していた。後継ぎさえ産まれたら、繋がりはより一層強固になり、投資を増額してくれるに違いない。しかし、それは皮算用のようだった。

「あら、今度の奥様はこんなに田舎臭い小娘なの?」

 華村家の屋敷に足を踏み入れた時、こんな声が聞こえてきた。私が驚き顔をあげると、そこには艶やかな女性が立っていた。襟を大きく抜いて、これでもかというくらいうなじが露わになっている。そんな格好をしている女の人なんて今まで見たことがなくて私が呆気に取られていると、彼女は口元を隠しながら「ウフフ」と笑う。

「私、ウメと申します。どうぞよろしくね、奥様」

 私が返事をするより先に、彼女は腰を揺らしながら去って行ってしまった。私が近くにいた女中に彼女の事を聞こうとしたら、女中は顔を曇らせてこう言った。

「旦那様の妾の、ウメでございます」

 元々芸妓だったウメに惚れてしまった旦那様が、彼女を屋敷に迎え入れたらしい。そのせいで前の奥様との関係が冷え込んでしまい、奥様は離縁を選んだ。しかし、妻がいないのは外聞が悪いため、他所から【新しい嫁】を迎え入れることにした……女中はこんな話を、婚礼が始まる前に私にそっと教えてくれた。その話を聞いて、頭が冷え込んでいくのが分かった。

 婚礼の儀式の後。私と旦那様は寝室で二人きりになった。私の寝間着をはぎ取り、体に覆いかぶさって腰を揺らす旦那様を見ながら、私は可愛らしい仕草をすることも出来ず、ぼんやりとこんなことを考えていた。

 そっか、私、ここでも必要とされないんだ。空っぽの体に冷たい空気が吹き抜けていく。

 旦那様は私の事をつまらない女だと思ったのか、夫婦として関係を持つことは、それから一切なかった。

 結婚して数か月、実家からは子どもはまだかという手紙が頻繁に届く。私はため息をつき肩を落としながらそれを読んでいた。子どもなんて、することをしないとできないのに。そもそも旦那様と夜を共にすることもできないのに、身ごもるわけないじゃない。でも、そんな話を包み隠さず手紙にしたためることも出来ない。私が溜まった手紙を庭で燃やしていると、アラアラと少し甲高い声が聞こえてきた。振り返らなくても分かる、ウメさんだ。彼女は草履をはいて、私に近づいて来る。顔をあげると、もう昼なのに襦袢姿のままのウメさんが私の前に立っていた。

「せっかくご実家から来た手紙をこんな風に燃やして、いいのかしら?」
「……はい」

 ウメさんは私の前でクルクルと回る。どうやら、どうしてそんな格好のままなのか聞いて欲しいみたいだった。私が小さな声で尋ねると、彼女はまるで自慢するみたいに大きな声を出した。

「今起きたばかりなの。だって、旦那様ってば朝まで寝かせてくれないんですものっ! 精力が旺盛な旦那様がいると、お互い大変ねぇ」

 私がとっさに顔を伏せると、ウメさんは楽しそうに大きな声で笑った。

「あぁ、アナタのところには行っていないの、すっかり忘れていた。そう言えば昨晩、抱いてもつまらない女だって言っていたわァ! その代わりウメは愛らしくて抱き心地もよくて、具合も良いって。ウフフ!」

 その話は今の私にとっては耳障りで不快なのに、ウメさんはやめようとしない。

「床での殿方の喜ばせ方が書いてある本、お貸しするわね? アナタもそれで勉強して、私の負担を減らしてちょうだいな。このままだと、私、疲れて死んじゃうわ」

 ウメさんは「お風呂でもいただいてくるわね」と戻っていく。私はじっと下を向きながら、唇を噛んでいた。うっすらと血が滲んで、口に鉄の味が広がっていく。ウメさんは言っていた通り、その晩、私にその【殿方の喜ばせ方】とやらが書いてある本を持ってきた。それを投げ捨てるように私の寝室――本当は夫婦の寝室なのだけど――に投げ込み、にっこりと笑った。

「今晩も旦那様は私のところに来てくださるんですって」

 軽い足取りで去って行くウメさんの背を見送り、私はその本を拾い上げる。パラパラとめくってから、屑籠に投げ捨てて、不貞腐れるように布団に潜り込んだ。もっとウメさんのように大胆な性格だったら良かったのに。そうすれば、きっと旦那様をお誘いして夜を共にして、子どもを宿すことだってできたはず。自分の控えめな性格が恨めしかった。

 ウメさんは私の事を下に見ることにしたらしい。また昼過ぎに襦袢姿のままやって来て、風呂敷に包まれた箱を私に渡す。

「これは、何ですか?」

 おどおどと聞く私に、まずは欠伸で答えた。

「私のお師匠様のところに持って行って欲しいの」
「それなら、女中にお願いしてきますね」
「今みんな出払ってていないのよ。アナタ、よろしくね」

 どうして私が? そう言おうとしたら、ウメさんはまた大きく欠伸をした。

「あーぁ、アナタの代わりに毎晩旦那様の相手をしているから疲れちゃった。良いわねアナタは、暇で」

 まるで役立たずと蔑まれたみたいだった。体がカッと熱くなっていく。私がわずかに苛立ったのを見て、ウメさんはニコリと笑った。

「それじゃ、よろしくね、オ・ク・サ・マ」

 嫌味っぽくそう言って、ウメさんはいなくなった。たった一人残された私は大きくため息をつき、出かける支度を始めた。少し肌寒くなってきたから羽織を肩にかけて、誰もいない屋敷の玄関に「行ってまいります」と声を出して、言われた通りにウメさんのお師匠の下へ向かう。お師匠の家はウメさんの自慢話でよく聞いていたから、大体の場所は知っていた。花街の門の入り口近く。幸いなことにすぐに見つかって、ウメさんからと言って押し付けるように渡して、私は屋敷に戻ろうとした。

「こんなところ、若い娘さんがうろつくような場所じゃないだろう?」
< 2 / 13 >

この作品をシェア

pagetop