薄幸ノ人妻ハ妖シキ鬼ノ愛ヲ知ル
 花街を出ようとした瞬間、みすぼらしい身なりの男に話しかけられた。思わず身がすくむ。男は一人ではなく、路地からもう一人現れた。

「仕事でも探しに来たのかい? いい店紹介するよ?」
「い、いいえ、私は……」
「上等な着物のお嬢さんなのに、恐慌が長く続いたからねぇ。大丈夫、稼ぎなら心配しないで」

 断りたいのに、上手く声が出てこない。男は私の手首を掴み、路地のさらに奥へ押し込もうとしている。どれだけ抗おうとしても私の力では振り払うことも出来なかった。どうしよう、頭はそれだけでいっぱいになっていった。助けてと叫ぼうにも喉が震えて上手く声が出ない。それに、ここで私を助けてくれる人なんて――。

「そこの二人、彼女から手を離しなさい」

 誰もいないに違いない、そう諦めようとした時、まるで天から降り注ぐような暖かい声が私を包み込んだ。振り返ると、黒い軍服の男性が立っている。軍帽で目は見えないけれど、きっと男たちを睨んでいたのだろう。私の腕を掴んでいた手がわずかに震え始める。

「ひっ!」
「お、おい、行くぞ!」

 男たちは私から手を離し、もつれるような足取りで逃げ出していった。私がその場でへたり込むと、軍服の彼は「大丈夫ですか?」と手を差し伸べてくれた。

「あ、ありがとうございます」

 私は顔をあげ、ハッと息を飲んだ。彼のその瞳の色が、ヒトの物ではなかったから。まるで血のような特徴的な赤い瞳。生まれて初めて見たけれど、話は聞いたことがある。それは【鬼】の瞳だった。

 この国に古来より住み、ヒトとは異なる大きな力を持ち、幾度もヒトと戦をし、その果て共生する道を選んだ少数民族【鬼】。その特徴の一つがその瞳だった。幼いころ、乳母が私に聞かせてくれた物語の中には【鬼】が恐ろしい化け物のように描かれるものもあり、そのせいで未だに恐怖心を抱く者も少なくない。私もその一人だった。私が怯えていることに気づいたのか、彼は申し訳なさそうに小さく笑った。

「良家の奥方様がこのようなところに長居するものではありませんよ、ほら」

 腰が抜けたままの私の両腕を彼は引っ張り上げるように持ち上げた。私は軽々と持ち上がり、そのまま地面に立たされていた。

「あなたが来るような所ではありません、またあのような者に声をかけられる前に屋敷に戻った方がいい? 連れは?」

 私は首を横に振る。

「一人でこんな所まで? どうしてまた……」

 不思議そうに首を傾げる彼に、私は震えながらいきさつをすべて話し始めていた。夫の妾に、師匠のところまで届け物をするように頼まれたところ。帰路につこうとしたら、先ほどの輩に目を付けられてしまった事。それらをすべて話している内に、震えていた体は落ち着いてきた。どうしてだろう? 私は顔をあげる。目の前にいる彼が、私の話に頷きながら耳を傾けてくれたからかもしれない。華村家に嫁いでから、私の話をこんな風に聞いてくれた人は彼が初めてだったかもしれない。私はぼんやりとそんな事を考えていた。すると、彼はまるで憤慨するように声を荒げる。

「あなたがするようなことではないでしょう? 妾に舐められているのに、怒らないんですか?」

 私は首を横に振った。

「いいんです。どうせ、私の価値なんてそれくらいしかないのですから」

 とても小さな声で言ったつもりだったのに、その卑屈な言葉は風に乗り、彼の耳に届いてしまった。深く長いため息が聞こえてくる。私が一礼をしてこの場を去ろうとした瞬間、再び、私の腕は彼に捕まれていた。

「あなたの価値がそんなに低いと、誰が言ったのですか? もし自分自身が値踏みしているのであれば、改めた方がいい。いい場所がある、行きましょう」
「え? 離してください!」

 早く屋敷に戻らないと、ウメさんに何を言われるか。そう抗議しても、彼は聞こうともしなかった。私たちは花街を飛び出し、長屋を抜けて大通りまで行き、気づけば目の前には教会があった。西洋の神を祭るこの場所に来た事はなかったので、どうして彼がここに来たのか、ここに何があるのか、さっぱり分からないままだった。

「中へ」

 扉を開ける彼に言われるがまま、私は教会の中に入っていく。そこには頭まで包み込むような真っ黒な服を着た尼が食事を配っている。受け取っている人々は皆貧しいように見えた。

「あら、鬼頭(きとう)様。また来てくださったのですか?」

 尼の一人がそう声をかけてきた。その呼びかけに彼が頷く。

「今日は炊き出しの日でしょう? 手が足りていないかと思って」
「えぇ、猫の手も借りたいくらいでしたわ。そちらの方も?」

 尼が私を見る。返事も出来ずに戸惑った私が鬼頭様と呼ばれた彼を見上げると、彼は深く頷いていた。

「さあ、鬼頭様は上着を脱いで。そちらのご婦人、お名前は?」
「え、あ、紗栄と申します」
「紗栄さんですね、着物が汚れないように割烹着をお貸ししますわ。こちらをどうぞ」

 あれよあれよという間に私は真っ白の割烹着に身を包み、彼とともに大きな寸胴鍋の前に立っていた。彼はお玉を握っている。

「ほら、器を」
「は、はい」

 私は近くにあった茶碗を彼に差し出すと、彼は鍋いっぱいに入っている煮物を茶碗によそっていく。そして、それを待っていた幼い子どもに渡していた。

「どうぞ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
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