天敵弁護士は臆病なかりそめ妻を愛し尽くす
 確かに自分自身も壱生と釣り合うとは思っていなかった。 

 だが本人から言われるのがこんなに悲しいとは思わなかったのだ。それだけ純菜の心は壱生にとらわれている。

 滲む涙を手のひらで拭いながら、エレベーターが到着するころには決心していた。

 部屋を出ていこうと。

 それから純菜の行動は早かった。玄関から中に入るとまっすぐに自分に与えられた部屋に向かった。そこからここにきたときに使ったバッグに荷物を詰め始める。

 救いなのは元の部屋をまだそのままにしていたことだ。

 元の生活に戻るだけ、悲しくなんかない。

 そう言い聞かせるけれど、思えば思うほど壱生と暮らした数週間の楽しかった記憶が頭の中に浮かんだ。そんなに長い時間ではないにもかわらず、別のことを考えようとしても消えてくれない。

 急いで片づけをしていると、扉の向こうから「純菜」と呼ぶ声が聞こえた。壱生が乃亜と別れて戻って来たようだ。

 一度リビングの方へ消えた足音が部屋の前まで戻って来た。次で扉をノックする音が部屋の中に響いた。

「純菜」 

 扉一枚隔てたところに壱生がいる。このままここに閉じこもっているわけにはいかないのに、返事ができずに扉を見つめる。

 すると焦れたようにもう一度ノックされた。しかし返事がないのがわかると「開けるぞ」と断りを入れた後、間髪入れずに扉が開いた。

「いるなら返事を――って、何してるんだ?」

 壱生は部屋の状況を見て、目を見開いて驚いた。

 純菜は硬い声で答える。

「荷物を詰めてるんです」

「だから、どうしてそんなことをしているんだ?」

 壱生が部屋に入って来てからずっと荷物を詰めている純菜の手を壱生が掴んだ。

「出ていくからに決まってます」

「いつそんなこと決まった」

 掴まれた手に力が籠る。

「私が決めました」

「だから、なんで?」

 問いかけに口を閉ざす。壱生は大きなため息をついた。

「とにかく、ちゃんと説明して」

 確かに彼からすればどうしてこうなったのかわからないだろう。純菜おもいつく限りの理由を並べた。

「ピッピは本宮さんのところに戻ったし、借金の件も落ち着いたので私のところに押しかけてくることもなくなりましたから、家に帰ります」

「は? 俺の頼みはどうなったんだ?」

 眉間に皺を寄せて純菜の顔を覗き込む。約束を守らなかったのだから怒るのは当たり前だ。
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