指輪を外したら、さようなら。

 昨日と今日は比呂がいないから、食事はお弁当か何かで済ませて、部屋の掃除をするつもりだった。



 明日は直帰予定だけど、うまくいけば一本早い便で帰って来れるって言ってたから、私も早く帰ったら打ち合わせできるよな。



 勝手に比呂との打ち合わせを決めて、明日は早く帰れるように段取りを考える。

「奥さん! 来てるんです」

「奥さん?」

「はい。有川主任の奥さん!」



 え――?

 比呂の奥さん……!?



「あ、でも、有川主任は出張だから――」

「知らなかったみたいですね?」

「じゃあ、帰ったの?」

「どうでしょう」と、楓ちゃんが首を傾げる。

「私が見た時は、向いのカフェにいましたけど」

 楓ちゃんは十分ほど前にお遣いから戻って来た。腕時計に目をやると、十一時二十五分。昼近くなってから受付で比呂を呼び出すつもりなのだろうか。



 けど、もう来ないように話をつけたって言ってなかった?



 どんな話をしたかは知らないけれど、比呂がそう言っても、奥さんが素直に聞き入れるかは別だ。だが、この二週間、確かに奥さんは来なかった。

 全身がざわっと震えた。



 私に会いに来た――?



 奥さんは私に気づいたと比呂が言っていた。



 でも、なんで?



 女の勘は恐ろしい。

 奥さんが短い挨拶を交わしただけで私が比呂の相手だと気づいたように、私もまた、二週間も経って社内の誰かに気づかれそうなカフェにいる奥さんの目的が私だと、気づいてしまった。

 パタン、とスケジュール帳を閉じ、バッグに放り込んだ。

「楓ちゃん。私、午後一で打ち合わせだから、少し早いけど出るね。戻るまでに、壁紙のサンプルとお勧めのパターンを用意しておいてね」

「わかりました。行ってらっしゃい!」

 私はコートを羽織り、バッグを肩に掛けた。



 こんなことが七回もあったら、三回ヤッたくらいで帳消しになんかできるか!

 むしろ、七回に対して、七回お預けしてやろうか。



 それなりに愛人をやってきたけれど、奥さんと対峙するのは初めてのことだった。

 カフェの、ビルの正面玄関を望める通りに面した席に、奥さんはいた。

 私は気づかない振りをしてカフェの前を通り過ぎ、通りの端で立ち止まった。バッグからスマホを出し、時間を確認する。腕時計をしているのに。

 コツコツ、というヒールの行き交う音が無数に聞こえる中でも、私は力強く、少し急ぎ気味で近づいてくる靴音に、少し背筋を伸ばした。

「こんにちは」

 スッと息を吸い込み、振り返る。

 比呂の奥さん。

「こんにちは」

 微笑む気など、最初からなかった。

「有川主任は出張中ですよ」

「そうなんですか」と、奥さんは微笑んだ。

 私には、妻の余裕、のように感じた。

「でも、今日はあなたと話がしたくて来たんです」
< 51 / 131 >

この作品をシェア

pagetop