指輪を外したら、さようなら。
 本当なら、断りたい。

 きっと、あの男の顔を見る度に、過度のストレスに晒される。

 けれど、尻尾を巻いて逃げたと思われるのはもっと嫌だ。

『あの時』の、私を見下してほくそ笑むあいつの顔を思い出す。

 二度と、あんな勝ち誇った顔をさせたくない。

「相川の言うことは尤もだ。俺も、これが相川以外なら、無条件で本人の意向よりもクライアントの希望を優先させたろう。だが――」

 何を言うつもりなのかと、目をパチクリさせた。

 まさか、関係を持ったことがあるからと特別扱いされるなんて思っていない。が、課長の言い方は、比呂に誤解されても仕方がない。

「――かちょ――」

「――どっちかっつーと、お前より有川の方が無理だろ?」

「え?」

 長谷部課長の言葉で比呂を見る。

 考え込んでいるのかと思ったが、よく見ると眉間に深い皺を刻み、歯を食いしばっている。

「過去とはいえ、自分の女をそんな目にあわせた男と仕事するとか、俺でもご免だな」

「……」

 課長の言葉に思わず黙ってしまったが、ハッとして口を開いた。

「――課長!」

「有川。どうする?」

「……」

 課長が私と比呂の関係に気づいているのは知っている。が、比呂は私と課長の関係を知らない。当然、どうして知っているのかと思うだろう。

 正直、知られたくない。

「絶対に一人で対応しない、って条件付きで」

 目を伏せたまま、比呂が言った。それから、組んでいた足と腕を解き、課長に身体を向けた。

「桐生でも秋吉でもいい。とにかく、俺と一緒でない時には、誰かを同席させる。絶対に大河内と二人きりにはならないこと」

「ちょ――、何言ってるの!? そんな特別扱い、許されるわけないでしょう。それに――」

「――でなきゃ、俺は降りる。もちろん、お前もだ」

 比呂の断固とした口調に、私はたじろいた。が、すぐに反論した。

「私はともかく、有川主任は――」

「――千尋」

 長谷部課長の前で名前を呼ばれ、ドキッとした。

「俺の条件を飲むか、降りるか、だ」

 比呂が怒っているのがわかる。

 心配してくれているのも。

 けれど、私が絡まなければ、この仕事は比呂にとっては間違いなく大きな実績となる。

 比呂の邪魔をしたくない。

「桐生にもいい勉強になるからな」

 そう言うと、長谷部課長は首を回してコリをほぐした。

「相川。大河内邸の打ち合わせには、必ず有川か桐生を同行させること」

「課長!」

「事情はどうあれ、社に取って大きな仕事だ。それに、間違いなくお前にとっても有川にとってもプラスになる」

「そうですけど――っ」

「勘違いするな! お前を守ることは社の信用を守ることに繋がるから言っているんだ。まして、相手は過去に確執があった上に、父親から担当は男にしてくれと念を押されるようなバカ息子だ。隙を見せるな。だが、仕事はきっちりこなせ」

「――はい」
< 87 / 131 >

この作品をシェア

pagetop