天敵御曹司は政略妻を滾る本能で愛し貫く
 処分、という言葉を聞いて、一気に体温が下がっていくのを感じた。
 自分にとって一番のお守りを、目の前で焼かれてしまったかのような衝撃が走る。
 私は床に崩れ落ちそうになったのを何とか堪えて、そばの柱に手をついた。
「今日は優弦様がお休みで、私たち朝食に誘われているんです。忙しいので、この話はもういいですか?」
 何……? 何を言っているのか、さっぱり入ってこない。
 ようやく心が折れた様子の私を見て、女中たちはいい気味だというばかりにニヤニヤと口元を緩めている。
――世莉。時代というのはね、変わり続けていくものだから、自分も変わらなくてはならない。
――信念を持ちながら、新しいものに歩み寄って、水のように柔らかい人間になりなさい。
――新しい未来を受け入れることは、楽しいですよ。
 祖母が、私に伝えたかったことが、全て詰まった着物だった。
 決して派手な柄ではないし、華やかさもない。
 一見何の変哲もない着物だったけれど、細部に祖母の思いと技術が詰まっていた、この世に同じものはひとつとない着物だったのだ。
 私は、あの着物を着たときの感覚だけを頼りに、生きていたのに。
 ポッキリと、根元から何かが折られた音がした。
 だけど、私は決して彼女たちの前では泣きたくなかった。
 涙が出る前にうしろを振り向き、厨房を小走りで後にする。
 今、私と一緒に泣いてくれる人間など、この世界にひとりもいないのだ。
 祖母の葬式から今日まで、血のにじむような努力を重ねてきた。だけどもう、ここから先歩いて行ける気がしない。
 無駄に広いこの家で、非力な私は何も暴けずに、飼い殺しにされるのかもしれない。
 深い絶望が目の前に広がっていく。
 自室に戻り鏡に映った自分を見ると、瞳から光が消えていた。
 顔もやつれていて、いつの間にこんなに痩せていたんだろうと思う。
「おばあちゃま……っ」
 心も体も空っぽのはずなのに、どうしてか涙だけは溢れてくる。
 たかが着物ごときでと言われたら、そうなのかもしれない。
 だけど、あれは私にとっての〝道しるべ〟だったのだ。
 こんなことになったのは全て――、運命の番などという、ふざけた制度があるからだ。
「許さない……」
 ふつふつと怒りが沸き起こって、私は歯を食いしばる。
 この家を今日……、めちゃくちゃにしてやる。
 
 今夜は見事な満月だ。
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