天敵御曹司は政略妻を滾る本能で愛し貫く
 ゆっくり起き上がると、心臓がバクバクとうるさく鼓動していることに気づいた。額にもうっすらと汗をかいている。
「夢か……」
 あの日のことを夢に見るのは、いったいもう何度目だろう。
 俺は深く息を吐き、まだ薄暗い夜明け前の空を、障子の隙間から眺めた。
 自分があの事件のことを忘れないでいることを再確認でき、安堵すらしている。
――世莉が安心して着物と向き合える世界を、俺に作らせて。
 あの日の夜から、世莉と一度も顔を合わせていない。
 元々タイムスケジュールが合うことは少ないけれど、明らかに避けられている気がする。
 自分でも、彼女に向かってよくあんなことが言えたと思う。
 世莉から見た俺は、ただの憎しみの対象でしかないと言うのに……。勝手な宣言をして、彼女を戸惑わせてしまったに違いない。
 もうすぐ、梅さんの命日が近づいている。
 葬式にも参列させてもらえなかった俺は、毎年密かに花を手向けることしかできない。
――優弦さん。世莉のこと、よろしくお願いいたします……。
 いつかの、梅さんの切実な声が、胸に沁みる。
「はい、必ず……」
 俺は空を見上げながら、小さくひとりごとを漏らす。
 どこかで、梅さんが聞いてくれていることを、願いながら。
 そのまま俺は、静かに部屋を出た。
 まだ起きるには早いが、職場に行って溜まった資料作成を片付けておこう。
 朝食は不要だと女中たちに伝えておかなければ。
 洗面室に向かおうとしたところで、俺はぴたっと歩みを止めた。
 今日も世莉とは顔を合わせてもらえないかもしれない……という考えが、彼女の部屋へ足を向かわせていた。
 少しだけ、一瞬だけ寝顔を見られたら、もうそれでいい。
 そんな思いで、俺はよくないと思いながらも、そっと障子の隙間から彼女の寝顔を眺めようとした。
 けれど、かすかに泣き声が聞こえてきて、俺はピタッと手を止める。
 すすり泣くような声が、布団にこもって聞こえてくる。
 もしかして起きているのかとドキッとしたけれど、世莉は魘されて泣いているようだった。
「う、おばあちゃまっ……会いたいっ……助けられなくて、ごめんなさいっ……」
 そんな寝言が聞こえてきて、胸が千切れそうになった。
 病院内で泣き叫ぶ世莉の顔が重なって、その場に立ち尽くすことしかできない。
 世莉が背負っている悲しみは、きっと海よりも深い。
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