忘れさせ屋のドロップス

渚さんがテーブルの上に薬箱を置くと、手際よくガーゼに消毒液を染み込ませながら、私の口元にそっと当てる。


「染みない?」

「あ、大丈夫です」

「絆創膏はってもいいけど、余計目立つから、このままにしておくね」

唇の端に傷薬をそっと乗せながら、渚さんが、すぐなおるよ、とふわりと笑った。

口元の傷は昨日より今日と痛みが引いていく。

遥の言う通り、心の痛みだけが一日ごとに痛みが増していく、そんな気がした。

「遥には言えた?」

聴診器で私の心音を、確認しながら、渚さんが、口を開いた。

「……言いました。……殴られた、ことだけ……うち母子家庭だから……母の事を言ったことで遥の負担にならないといいんですけど……」

渚さんは優しい。私があまり聞いて欲しくないのが分かってるから。深くは聞かない。私が自分で話すまで。

「遥は大丈夫だよ。むしろ有桜ちゃんが抱えてること話してほしいって思ってるはずだから」

「……私、お母さんとは……もう会いたくなくて」

「うん……お母さんとは会った時は?話は、できた?」

私は首を振った。

「話の途中で……怖くて逃げ出しちゃって……お母さん、此処の住所、調べてて、もうすぐバレちゃうかもしれなくて……私……帰りたくない……」

泣き出した私を渚さんが抱きしめてくれる。


「お母さんは、私なんてどうでもいいクセに、男の人の別れると、決まって私に……干渉して、家事も、全部押し付けて……」

誰かに家のことをここまで話したのは初めてだった。渚さんは、私の頭をそっと撫でる。

「うん、そっか……しんどいね……」

「渚さん……」

縋り付くように、私は手を伸ばしていた。

「……一人じゃないからね」

そっと頭を撫でてくれる掌を私は以前から知ってることを思い出した。昔小さな頃よく熱を出した私に、母がしてくれていたことだ。

もう随分昔だけど。あの頃は良かった。父も優しくて、母も料理や洗濯をして、私に絵本を読んでくれたり。平凡だけど幸せだった。

「有桜ちゃん……私にはね……有桜ちゃんとお母さんの関係はわからないし、何かしてあげられることもないのかもしれない……でもね……一つだけ言えるのは、本当にどうでも良かったら、お母さんは、有桜ちゃんを探したりしない」

渚さんの顔を見た私の瞳から、渚さんが涙を、掬った。

「有桜ちゃんも言いたいこと言って、お母さんの言い分も聞いて、……ちゃんと話がついてから遥と一緒にいた方がいいから。有桜ちゃんにとっても、勿論、遥にとってもね」

「遥と一緒に居られなくなっちゃう……」

こんな私じゃ、遥とは居られない。

「大丈夫だよ……遥は、もう有桜ちゃんを離すつもりないから」

ーーーー違うの。遥に言わなきゃいけない。私はほんとは遥とは一緒に居てはいけないから。

何度も何度も言いたくて。でも言えなかったの。

遥が好きだから。好きで好きでどうしようもなかったの。

言葉に出してしまえばもう、遥はきっと、私を手放すから。
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