突然ですが、契約結婚しました。
俺1人だったかどうかもわからない。そう言って、憎しみを込めた鋭い視線は私に滑らされる。そこで、自分の息が浅くなっていることに気が付いた。

婚約者がいる、それは私が吐いた嘘だ。そして、そう嘯いて欺いた男性がいることを、契約結婚を持ちかけたタイミングで主任には話していた。だから、ジンくんが矛にしている言葉達は、実際は何の攻撃にもならない。ならないはずなのに。
何が、こんなにも苦しいんだろう。

ジンくんの顔が見られなくて俯いたところに、主任が庇うようにして私の前に一歩出た。

「もしそれが事実なら、そうさせた僕の責任でもあります。全てが妻の責任だとは思わない」

主任の声は力強く。存在しない事実まるごと、あたかも真実のように語りかける。
ラインナップの代わり映えしない自動販売機。連綿と続くガードレール。目的地を目指して、あるいはあてもなく行き交う人々。目に飛び込む情報は沢山あるのに、意識は一箇所にのみ集中する。目の前の大きな背中に、全ての熱が向く。

「しゅに……」
「過去は過ぎ去った過去だ。彼女は今、僕の傍にいる。僕にとってはそれが全てです」

もう一度、失礼しますと言って、主任は今度こそその場を離れた。ジンくんは追いかけてはこなかった。
掴まれたままの左手が熱い。だけどそれ以上に、喉と鼻の奥がかっと熱を帯びて、主任に腕を引かれながら涙を堪えるのに全力を注いだ。

人気の少ない路地まで来たところで、主任が足を止めた。ぱっと手が離され、急激に熱を失った気分になる。その頃にはもう、視界は雨が打ち付けられたガラス窓のようにぼんやりと滲んでいた。

「……すまん、勝手なことした」

申し訳ないというように眉を下げて私を振り返る主任。謝らないでください。そう言いたいのに、声を出すよりも先に嗚咽が漏れてしまいそうで首を振るしか出来なかった。代わりに、両手で主任の右手をとった。

「小澤……?」

主任の顔が見られなくて、掴んだ右手に視線を落とす。

「さっき……彼が言ったこと、なんですけど」
「うん」
「あらかた、嘘じゃなくて。聞いて……けいべつ、しなかったですか」
「しない」

声は詰まって、たどたどしい物言いになった。間髪置かずに少し熱のこもった返答があって、私の胸はもう一滴の雫も受け止められないほどにいっぱいになった。あともう一粒落ちたら、堰が切れる。
そう思うのに、主任の言葉は止まなかった。
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