『政略結婚は純愛のように』番外編集
「お腹に子ができると動くのがわかるっていうけど、いつからだ? まだなにも感じないな」

 由梨のお腹に優しく手を当てて、隆之が首を傾げる。夫婦の寝室のベッド座り、由梨を後ろから包み込むように抱きしめている。
 由梨はくすくすと笑った。

「そんなのまだまだ先ですよ。全然、お腹も膨らんでもいないんだから」

「そうか」

 由梨の首筋に顔を埋めて彼はぐぐもった声を出す。

「次に会う時は、どのくらい膨らんでいるんだろう。……楽しみだな」

 その言葉に、由梨の視界がじわりと滲んだ。
 ついさっき、北部支社についての隆之の決断を聞かされたばかりである。加賀ホールディングスが北部支社へTOBを仕掛けている間の一カ月間は、彼が東京へ行ったきりだということも。
 今井財閥という巨大な権力と全面対決する以上、株主たちを説得するという理由だけでなく、さまざまな横槍をかわすために、居場所を知られない方がいいのからだ。

 彼の決断には、賛成だ。

 自分だけが生き残るのではなく、北部支社の社員たち全員を救うため、すべてを賭けるという彼が誇らしい。彼の元で働けていることを心からありがたいと思う。

 でも妻としては彼のことが心配だった。隆之が決断したのだから、勝算がないわけではないのだろう。とはいっても簡単な道のりではないことくらいは、由梨にでもわかった。
 今井コンツェルンはあの手この手で彼の邪魔をするだろう。
 おそらくは汚い手を使ってでも。巨大な権力の中心で育った由梨には容易に想像できることだった。
 こんな心細い気持ちのまま、一カ月もの間離れ離れになってしまうなんて、とても耐えられそうにないと思う。
 だからといって彼を止めることなどできるはずがない。

「一番大事な時に、そばにいられなくて。…………ごめん、由梨」

 隆之がまたくぐもっった声を出す。
 耳元で囁く声、自分を包む逞しい腕が少し震えていることに気がついて、由梨はハッとした。

 彼は強いリーダーだ。

 それは紛れもない事実だろう。でも常に、孤独と隣り合わせなのだ。

ひとりで決断をし、ひとりでその責務を負う。

 今回のことも万が一の時は彼はすべての責任をひとりで負うのだろう。
 その彼が由梨にだけ見せるほんの僅かな弱気な部分を、由梨は目を閉じて受け止める。
 いつかの夜、たくさんの人たちの人生を背負う彼の助けになりたいと願ったことを思い出す。

 今が、その時なのかもしれない。

 お腹に添えられた彼の手に、由梨は自らの手を重ねる。あなたはひとりじゃないという思いを込めて。
 手が重なるその下には、温かくて小さなふたりの命がある。由梨にできることは多くない。それでもこの命をしっかり守っていくことが彼の力になるはずだ。
 由梨はゆっくりと振り返った。

「大丈夫です。私にはこの子がいますから。隆之さんは、隆之さんのするべきことを成し遂げて下さい」

「由梨……」

 自分を見つめるアルファの瞳が一瞬揺れる。
 由梨は重ねた手に力を込めた。

「隆之さん、愛しています。たとえなにがあっても、私はここであなたをお待ちしています。あなたの帰る場所は、この家です」

 言葉に力を込めてそう言うと、隆之がふわりと微笑んだ。

「ありがとう。君がいるから、俺は闘える」

 翌日、加賀ホールディングスが今井コンツェルン北部支社にTOBを仕掛けたというニュースが日本中を駆け巡った。
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