『政略結婚は純愛のように』番外編集
TOBが発表された日の朝、出社してみれば、案の定会社は大騒ぎだった。
企画課では一番事情を知ってそうな課長の陽二の元へ皆が詰めかけている。なにも知らされていないという陽二は、困り果てていた。
「社長を信じて待つしかないだろう。今井コンツェルンはここ数年連結赤字が続いているから、このままでは北部支社も共倒れになってしまう。みすみす指を咥えて見ているわけにはいかないというご判断なんだろう」
「でも、もし失敗したら……社長は……加賀社長はどうなるんですか⁉︎」
皆の関心はその一点にあるようだ。
皆は隆之が社長だから、着いてきたのではない。隆之が隆之だからこそ、ここまでやってこられたのだ。リーダーを失うことに怯えて不安そうにしている。
「社長は、会社に残れるんですか⁉︎」
その問いかけに陽二は答えることができない。それこそが全てを物語っている。
黒瀬が口を開いた。
「今井コンツェルンが傾いて、北部支社が巻き込まれるなら、社長は辞めて加賀ホールディングスへ戻ればすむ話しだったんだろう。この地には加賀社長を必要としている加賀家の関連会社は山ほどあるんだから。でも社長は……俺たちも救おうとしてくれているんだ」
苦しげに言って首を振る。
そこで天川が、由梨に気がついた。
「今井さん……」
今度は由梨に注目が集まる。
皆複雑そうな眼差しだった。
無理もない。
由梨と隆之の結婚が今井家と加賀家を結びつけるための政略結婚だということは会社の人間なら誰もが知っている。それでうまくいっていたはずなのに、隆之が今井家に対して真っ向から闘いを挑んだのだから。
そこへ、慌てたように長坂と奈々が駆け込んできた。
「今井さん!」
ふたりは由梨の元へ駆け寄って震える唇を開いた。
「今、臨時の取締役会が開かれているの。と、東京から朝イチで取締役の三人がおみえになって……」
「くそっ!」
黒瀬が悪態をついた。
「名目だけの、幽霊部員みたいな奴らか。普段は滅多に来ないくせに! 本社からの指示を持ってきたんだろう!」
「しゃ、社長は、ど、どうなるんですか⁉︎ 由梨先輩。い、今井家側は、怒ってるんですよね」
奈々が真っ青になって由梨に縋り付く。
「まったく殿は! ひとりで無茶をするんだから」
長坂が、悔しそうに言った。
彼女たちを見つめながら、由梨は昨夜心に決めたことを思い返していた。
……怖くないわけではない。
でも目を閉じて深い深呼吸をひとつすると、今自分がやるべきことが頭の中に鮮明に浮かび上がる。巨大な権力に、たったひとりで闘いを挑んだ、加賀隆之の妻としての役割が。
目を開き皆を見回して、由梨はゆっくりと口を開いた。
「……おそらく臨時の取締役会で、社長は代表権を剥奪され、社長の座を引きずり下ろされるのでしょう。取締役5名のうち、3名が今井家の息がかかった人物ですから」
その言葉に一同は息を呑む。由梨は落ち着いて言葉を続けた。
「ですがそれは一時的なこと。TOBが成立すればまた戻って来られます。社長は、必ず戻ってくると私に約束をしてくれました」
強い思いを込めてそう言うと、皆が目を見張る。
「今井さん、……君は……」
黒瀬が呟く。
由梨が今井家側ではなく隆之の、皆の味方だということが正確に伝わったようだ。
「社長は、必ず戻ってきてくれます。だから皆さん、信じて待ちましょう」
力強くもう一度繰り返せば、心なしかこの場の空気が少し緩む。
由梨は皆に訴えかけた。
「皆さんでこの会社を守り抜きましょう。社長が安心して闘えるように」
「今井さん」
「由梨先輩……」
すると、誰かがパチパチと手を叩く音がする。
陽二だった。
「さすがは社長の奥さんだ」
この場に相応しくないほどに、にっこりと微笑んでいる。
「あの社長を虜にしてるんだ。やっぱりただものではなかったな」
「え⁉︎ か、課長!」
真っ赤になって由梨が声をあげると、どっと笑いが起こり、一気に場が和んだ。
彼に釣られて手を叩く者。
そうだそうだと言い合う者。
「しっかり会社を盛り立てて、社長のお戻りをお待ちしよう!」
「戻ってこられた時に、やっぱりこんな会社いらないなんて思われないようにしなきゃね」
由梨の視界が滲んでゆく。
隆之が、もてる力のすべてを掛けてでも、彼らを守りたいと考えるたのは間違いではなかったと確信する。
そこへ。
「長坂、こんなところにいたのか」
隆之が階上から降りてきた。室長の蜂須賀を連れている。
「西野さんも。秘書室がもぬけの殻だったぞ」
「社長、取締役会の最中では⁉︎」
長坂が問いかけると、隆之は肩をすくめた。
「あんなもの数分で終わる。目的はひとつなんだから」
「では……」
「俺は今すぐに出発し東京へ飛ぶ。業務はすべてリモートに切り替えてくれ。その都度居場所は知らせるが、会社のネットワーク上には載せないように」
「社長、私はお供します!」
室長の蜂須賀はそう言うが、隆之は首を横に振った。
「ダメだ。お前は北部支社の社員だ。連れて行くわけにはいかない」
たったひとりで行くと言う隆之に由梨は涙が溢れそうになってしまう。やはり彼は何があっても全責任をひとりで背負う覚悟なのだ。
でもそれを止めることは誰にもできなかった。
「社長……」
「社長……!」
皆が彼に呼びかけると、隆之が一同をぐるりと見回した。
それだけで、その場がしんと静まりかえる。皆息を呑み、リーダーの言葉を待っている。
厳しい現実を聞かされることを覚悟して。
だが彼は、なにも言わずただ優雅に微笑んだだけだった。
窮地にあるはずの自分たちのアルファ。その、余裕すら感じられる微笑みに、その場にいる者すべてが魅了される。
隆之がよく通る声で宣言した。
「私は、必ず戻る。それまで、会社を頼む」
そして彼は踵を返し、カツカツと靴音を鳴らしてエレベーターの方へ去ってゆく。
その背中に、由梨は思わず呼びかける。
「社長、いってらっしゃいませ!」
深々と頭を下げると、他の者も由梨に従った。
「いってらっしゃいませ!」
彼は軽く手を上げて、振り返ることなくエレベーターへ消えていった。
企画課では一番事情を知ってそうな課長の陽二の元へ皆が詰めかけている。なにも知らされていないという陽二は、困り果てていた。
「社長を信じて待つしかないだろう。今井コンツェルンはここ数年連結赤字が続いているから、このままでは北部支社も共倒れになってしまう。みすみす指を咥えて見ているわけにはいかないというご判断なんだろう」
「でも、もし失敗したら……社長は……加賀社長はどうなるんですか⁉︎」
皆の関心はその一点にあるようだ。
皆は隆之が社長だから、着いてきたのではない。隆之が隆之だからこそ、ここまでやってこられたのだ。リーダーを失うことに怯えて不安そうにしている。
「社長は、会社に残れるんですか⁉︎」
その問いかけに陽二は答えることができない。それこそが全てを物語っている。
黒瀬が口を開いた。
「今井コンツェルンが傾いて、北部支社が巻き込まれるなら、社長は辞めて加賀ホールディングスへ戻ればすむ話しだったんだろう。この地には加賀社長を必要としている加賀家の関連会社は山ほどあるんだから。でも社長は……俺たちも救おうとしてくれているんだ」
苦しげに言って首を振る。
そこで天川が、由梨に気がついた。
「今井さん……」
今度は由梨に注目が集まる。
皆複雑そうな眼差しだった。
無理もない。
由梨と隆之の結婚が今井家と加賀家を結びつけるための政略結婚だということは会社の人間なら誰もが知っている。それでうまくいっていたはずなのに、隆之が今井家に対して真っ向から闘いを挑んだのだから。
そこへ、慌てたように長坂と奈々が駆け込んできた。
「今井さん!」
ふたりは由梨の元へ駆け寄って震える唇を開いた。
「今、臨時の取締役会が開かれているの。と、東京から朝イチで取締役の三人がおみえになって……」
「くそっ!」
黒瀬が悪態をついた。
「名目だけの、幽霊部員みたいな奴らか。普段は滅多に来ないくせに! 本社からの指示を持ってきたんだろう!」
「しゃ、社長は、ど、どうなるんですか⁉︎ 由梨先輩。い、今井家側は、怒ってるんですよね」
奈々が真っ青になって由梨に縋り付く。
「まったく殿は! ひとりで無茶をするんだから」
長坂が、悔しそうに言った。
彼女たちを見つめながら、由梨は昨夜心に決めたことを思い返していた。
……怖くないわけではない。
でも目を閉じて深い深呼吸をひとつすると、今自分がやるべきことが頭の中に鮮明に浮かび上がる。巨大な権力に、たったひとりで闘いを挑んだ、加賀隆之の妻としての役割が。
目を開き皆を見回して、由梨はゆっくりと口を開いた。
「……おそらく臨時の取締役会で、社長は代表権を剥奪され、社長の座を引きずり下ろされるのでしょう。取締役5名のうち、3名が今井家の息がかかった人物ですから」
その言葉に一同は息を呑む。由梨は落ち着いて言葉を続けた。
「ですがそれは一時的なこと。TOBが成立すればまた戻って来られます。社長は、必ず戻ってくると私に約束をしてくれました」
強い思いを込めてそう言うと、皆が目を見張る。
「今井さん、……君は……」
黒瀬が呟く。
由梨が今井家側ではなく隆之の、皆の味方だということが正確に伝わったようだ。
「社長は、必ず戻ってきてくれます。だから皆さん、信じて待ちましょう」
力強くもう一度繰り返せば、心なしかこの場の空気が少し緩む。
由梨は皆に訴えかけた。
「皆さんでこの会社を守り抜きましょう。社長が安心して闘えるように」
「今井さん」
「由梨先輩……」
すると、誰かがパチパチと手を叩く音がする。
陽二だった。
「さすがは社長の奥さんだ」
この場に相応しくないほどに、にっこりと微笑んでいる。
「あの社長を虜にしてるんだ。やっぱりただものではなかったな」
「え⁉︎ か、課長!」
真っ赤になって由梨が声をあげると、どっと笑いが起こり、一気に場が和んだ。
彼に釣られて手を叩く者。
そうだそうだと言い合う者。
「しっかり会社を盛り立てて、社長のお戻りをお待ちしよう!」
「戻ってこられた時に、やっぱりこんな会社いらないなんて思われないようにしなきゃね」
由梨の視界が滲んでゆく。
隆之が、もてる力のすべてを掛けてでも、彼らを守りたいと考えるたのは間違いではなかったと確信する。
そこへ。
「長坂、こんなところにいたのか」
隆之が階上から降りてきた。室長の蜂須賀を連れている。
「西野さんも。秘書室がもぬけの殻だったぞ」
「社長、取締役会の最中では⁉︎」
長坂が問いかけると、隆之は肩をすくめた。
「あんなもの数分で終わる。目的はひとつなんだから」
「では……」
「俺は今すぐに出発し東京へ飛ぶ。業務はすべてリモートに切り替えてくれ。その都度居場所は知らせるが、会社のネットワーク上には載せないように」
「社長、私はお供します!」
室長の蜂須賀はそう言うが、隆之は首を横に振った。
「ダメだ。お前は北部支社の社員だ。連れて行くわけにはいかない」
たったひとりで行くと言う隆之に由梨は涙が溢れそうになってしまう。やはり彼は何があっても全責任をひとりで背負う覚悟なのだ。
でもそれを止めることは誰にもできなかった。
「社長……」
「社長……!」
皆が彼に呼びかけると、隆之が一同をぐるりと見回した。
それだけで、その場がしんと静まりかえる。皆息を呑み、リーダーの言葉を待っている。
厳しい現実を聞かされることを覚悟して。
だが彼は、なにも言わずただ優雅に微笑んだだけだった。
窮地にあるはずの自分たちのアルファ。その、余裕すら感じられる微笑みに、その場にいる者すべてが魅了される。
隆之がよく通る声で宣言した。
「私は、必ず戻る。それまで、会社を頼む」
そして彼は踵を返し、カツカツと靴音を鳴らしてエレベーターの方へ去ってゆく。
その背中に、由梨は思わず呼びかける。
「社長、いってらっしゃいませ!」
深々と頭を下げると、他の者も由梨に従った。
「いってらっしゃいませ!」
彼は軽く手を上げて、振り返ることなくエレベーターへ消えていった。