合意的不倫関係のススメ
エントランスでオートロックを解除し、エレベーターに乗り込む。カードキーで解錠し部屋に入った途端、蒼が私を抱き締めた。

とさりと、バッグが足元に落ちる。

「蒼…?どうしたの?」
「…」
「やっぱり調子悪い?ベッドに行く?」

様子のおかしい彼の背中を優しくさすり、子供に問いかけるように穏やかな声色を心がける。

彼は何も言わず、ただぎゅうっと腕の力を強めるだけだった。

数分そうしたのち、彼がぽつりと言葉を落とす。

「分かってる」
「え…?」
「俺にはそんな資格ないって」

(一体何の話…?)

耳にかかる彼の呼吸が冷たい。蒼が昔から好んでつけている柑橘系のオードトワレが、ふわりと鼻腔をくすぐった。

私は、彼から香るこの匂いがとても好きだ。昔自分にもこっそりつけてみたことがあるけれど、同じ香りにはならなかった。

「ねぇどうしたの?何かあったの?」
「茜が、触られてるのを見たから」
「触られてる…?」

その表現に当てはまる出来事といえば、売場での《《あれ》》位しか思いつかない。二條さんが無意味に私の肩に手を乗せた、ほんの一瞬。

(まさか…やきもち?)

あり得ないと思った。それは、二つの意味で。

一つ目は、たったあれだけのことで穏やかな蒼がやきもちなど妬く訳はないだろう、ということ。

二つ目は…

(どの口が、言えるの)

こんな考えが浮かんでしまう自分が、心底嫌いだ。

「蒼、ベッド…行く?」

私には、《《この方法》》以外に思いつかない。彼の手を引き、二人で寝室に入る。服を脱ごうとした私を、蒼は止めた。

「今日は、こうしてたい」

弱々しい口調でそう言って、私を抱き締めベッドに倒れ込む。そのまま、彼は目を瞑り私の肩に顔を埋めたのだった。
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