クレオ*̣̩エシス
ιστορία*.3─序章─
「──ピアノが弾きたい」
一連の出来事は、そんな何気ない深夜の一言から始まった。
7月の初め頃、エアコンの効いた病室で、病院から配布されている算数のワークを解きながら、鉛筆の裏で机をトントン叩いていた深夜は、ふと思いついたように声を上げたのだった。
「ピアノ、弾けるの……?」
唐突な言葉に、隣で同じく算数のワーク──彼女の場合は、小4の範囲だが──を解いていた羽月は、コテンと首を傾げる。
「あぁ、家に電子ピアノがあってさ。昔からたまに弾いてたんだよ」
「へぇ……!凄いね。私、ピアノって触ったことなくて……」
「えっ……。なん────」
言いかけて、深夜は口を紡いだ。
何となく想像ができてしまったのだ。
──また、いじめの件か。
気まずくなって、深夜は目を逸らす。
そんな深夜を見て何を感じたのか、羽月は微笑んで口を開いた。
「私にも、出来るかな?」
「出来るよ!羽月物覚えいいし、簡単な曲だったら、きっとすぐ弾けるようになるさ」
パァっと顔を輝かせた深夜を見て、羽月はその意外さに瞬く。
──深夜、そんな顔出来たんだ。
普段大人っぽい彼からは、あまり想像できない子供のような純粋な笑み。
──そんなにピアノ、好きなのかな。
ふと考える羽月だったが、段々と深夜がそこまで惹かれるピアノに興味が湧いてきた。
「私っ…、ピアノ、弾いてみたい……!」
瞳を輝かせる羽月を前に、深夜は顎に手を当てた。
「そうだな……」
「どうしたの?」
「いや、俺たちモリンシ患者が、どうやったらピアノに触れる機会ができるかな、と」
「あ、そっか。外には出れないもんね」
そこまで考えていなかった羽月は、どうしよう、と目を伏せた。
深夜は暫く考えていたが、なにか思いついたのか、声を上げた。
「思いついた。ここ出てすぐホールがあるだろ、あそこならそこそこ人数も入るし頻繁に使われるわけじゃない。そこに、モリンシ患者を元気づけるって名目で、ピアノ用意してもらえないかな……!?」
その案を聞き、羽月は再び目を輝かせた。
「いいと思う…!」
「よし!んじゃ、幽見さんに相談だ!」
すくっと立ち上がると、深夜は拳を握りしめた。
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「────っと言うわけなんですけど、どうですか?」
休憩なのか、自販機でカフェオレを買っていた幽見を捕まえ、深夜と羽月は事情を話す。
幽見は、なるほどね、と呟くと、口の端を釣りあげた。
「いいじゃない!わかったわ、お姉さんに任せなさい」
「ほんとですか…!?」
威勢のいい答えに、羽月は目を丸くする。
「えぇ、任せておいて。これでも私、病院内じゃそこそこ発言権があるんだから。ピアノの宛もあるし、きっとオーケーしてもらえると思うわ」
パチッとウインクを決める幽見。
深夜と羽月はお互いの顔を見合せ、にっこり笑った。
「良かったな、羽月」
「うん…!」
それを見た幽見は1人、カフェオレを啜りながら
「随分仲良くなったじゃない。良かったわ」
と、呟いたのだった。
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「えーっと、楽譜どこやったかな……」
病室に戻り、引き出しの中を漁っていた深夜は、軈て目当てのものを見つけた。
手書きの楽譜。
そのうちの何枚かは、昔のものなのか、少し黄ばみ始めている。
「───懐かしいな」
目を細めた深夜の肩越しに、羽月は楽譜を覗き込む。
「う……読めない、な」
不安そうに眉を下げた羽月を見て、深夜は驚いたように尋ねる。
「学校で習わなかったか?どこが《ド》の音でーとか」
「うーん……。習った…かも、しれない」
記憶に残っていないのか、曖昧に答えた羽月。
深夜は顔は笑いながらもため息を着くと、羽月の頭をポンと撫でると、言った。
「俺が教えてやるよ。だから心配するな」
暖かな深夜の言葉に、羽月は自然と頬を緩める。
優しい言葉を掛けられ慣れていないことから、多少の恥ずかしさもあるが、それよりも今は、深夜の優しさが嬉しかった。
「うん……!ありがと、深夜」
羽月は深夜の横に並び、楽譜の読み方を教わり始めた。