クレオ*̣̩エシス
ιστορία*.3─前編─
「ピアノ、用意できたわよ」
そう言いながら幽見が部屋にやってきたのは、次の日の朝の事だった。
「え、もう用意できたんですか……!?」
あまりの速さに目を丸くする2人が面白かったのか小さく笑みを零しながら、幽見は口を開く。
「えぇ。深夜くんのご要望通り、1階のホールにグランドピアノを1台用意してもらったわ。お披露目は午後の予定だから、2人は今のうちに楽しんできなさい」
遠回しに、午前中はピアノを占領できると伝える幽見の優しさに気が付いた深夜は、その暖かさに口元を緩める。
「ありがとうございます!急ぐぞ、羽月」
「うん……!」
急いで支度をし始めた2人を見て、ピアノを用意できて本当に良かったと、幽見は微笑んだ。
素早く着替えた2人は、部屋から転がりでるように駆け出し、ホールへと向かう。
走る彼らの顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
ホールへ続く渡り廊下を駆け抜け、大ホールの重たい扉を開けると、
───天窓から降り注ぐ朝日を、一身に浴びて光り輝く、ピアノがあった。
「「わぁ───っ」」
神々しさすら感じるその姿に、2人は束の間息を止め、呆然と眺める。
暫く沈黙が続いたが、ふとどちらともなくピアノに近づいた。
「すごい……綺麗……」
「あぁ。俺もグランドピアノで弾くのは、初めてだ……」
恐る恐る、深夜は鍵盤に触る。
滑らかに、しかし確かに感じる木の温もりに、深夜は目を細める。
そして、意を決したように、ひとつの鍵盤を鳴らした。
ポーンッ──────
ホール中に広がったピアノの音は、壁や床に跳ね返り、木霊する。
まるで、音そのものに包まれたかのような感覚。
その様に、深夜だけでなく羽月も息を飲み、その音に心を委ねた。
「───凄い」
ポツリと零れた言葉。
羽月も同じ感想を持っていたようで、深く頷く。
「こんな凄いピアノ……俺が弾いていいのかな……」
その音を、姿を見てしまったからこそ、湧き上がってくる不安。
スッと鍵盤を撫でた深夜の横から、羽月の手が伸び、もう一度、鍵盤を鳴らした。
「深夜のピアノ、聴きたいな」
目を合わせ、ふわりと微笑む羽月を見て、深夜の不安が消えた。
今はただ、彼女に聴いて欲しい。
それだけが深夜の心に浮かぶ。
「───わかった」
短く一言だけ言うと、深夜は椅子に座り、足をペダルに載せる。
今度は1音ではなく、いくつかの和音を確認するように鳴らした。
それだけで、羽月の背中を感動のような衝撃のような、なんとも言えない感覚が駆け巡った。
「なんの曲を弾くの?」
「『神々の祈り』って曲。母さんが教えてくれた曲の中で、1番難しいんだ」
久しぶりだから、あんま期待すんなよ。と、困ったように笑う深夜に微笑み返す。
それから深夜は真剣な顔つきになり、手を構える。
その瞬間、場の空気がガラリと変わった。
いきなり変わった空気と緊張感に、羽月は思わず唾を飲む。
そして、深夜は初めの音を鳴らした瞬間。
──────っ……!!
羽月は思わず左腕を握りしめた。
音が広がり、何重にもなって、羽月に降り注ぐ。
ホールにいるはずなのに、どこか知らない土地を旅しているような感覚。
音が変わる度、景色も変わる。
例えば、澄み渡る星空の下。
例えば、眼前に広がる虹色のオーロラ。
例えば、キラキラと舞うダイヤモンドダスト。
それらの光景が、現れては消えていく。
まるでひとつの映画を見ているような、しかしそんな綺麗な風景と同時に、羽月の脳裏に浮かんだのは、過去の記憶。
段々と落ち着いたメロディーになっていくと共に、太陽に雲がかかり始め、ホールに影を落とし、辛い記憶が思い出される。
初めて自分の生い立ちについて聞いた時。
学校で虐められた時。
母親が倒れた時。
姉に拒絶された時。
その悲しいメロディーは、羽月の心にしみ渡る。
ふっ、と深夜の手が止まる。
一息つくと、また曲が始まる。
先程の悲しいメロディーから、段々と明るくなっていく。
太陽をおおっていた雲が段々と移動し、徐々に光が刺し始める。
それはまるで希望の光。
あの時羽月を受け入れてくれた、深夜のような。
クライマックスに近づくにつれ、複雑に絡み合っていくメロディー。
しかし、最後の音はとても柔らかくて。
羽月の頬を、涙がつたい落ちた。
「──っ……!」
音楽で、こんなにも感動したのは初めてだった。
だから羽月は、止めどなく涙を流しながら、精一杯拍手を送った。
「─────はぁっ…」
弾き終わった達成感と、久しぶりであった緊張感が一気に襲いかかり、深夜は思わず息を吐く。
緊張のせいか、額から汗が流れ落ちた。
その汗を拭うと、未だ拍手を続けている羽月に目線を移し、驚きに目を見開いた。
「な、なんで泣いてるんだ」
「音楽に感動したの、初めてで……」
涙を拭いながら、羽月は微笑む。
「凄く、感動した。ありがとう、深夜」
その言葉を聞けたことで、深夜はとても報われた気がした。
「ほら、羽月も弾いてみろよ」
「でも私、何も弾けない─────」
「俺が教えるよ。ほら、座って」
困惑する羽月を椅子に座らせ、自分はその後ろに立つ深夜。
恐る恐るピアノに触れる羽月に、優しく簡単な曲を教え始めた。
その様子を、ドア付近の壁に寄りかかりながら見守る影が1つ。
そう、幽見である。
「……頼むくらいだから、弾けるんだろうとは思ってたけど」
先程の深夜の演奏を聴いて、思わず幽見も泣きそうになってしまった。
幽見は、そんな深夜の意外な才能を見つけたことに、顔をほころばせた。
今思えば、彼等はまだ出会って数ヶ月しか経っていないのだ。
それでも、あそこまでお互いのことを信頼することが出来ているのは、きっと、2人が似ているから。
幽見が2年経っても開けなかった羽月の心の扉を、深夜がいとも簡単に開けることが出来たのは、同じ痛みを持った者同士だったからなのだろう。
苦しみや悲しみは、同じ痛みを持ったものにしか分からない。
それは、看護師をやっている上で、幽見が1番痛感していることだった。
「アタシ、やっぱり弱いよ────」
誰にともなく呟いた言葉は、ピアノの音と混ざり合い、空気へと溶けていった。
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幽見に呼ばれ、お昼を食べに病室に戻った2人は、まだ冷め止まぬ興奮に、揃ってため息をついた。
しかし、そのタイミングがピッタリ同じだった為、思わず吹き出した。
「羽月は午後、見に行くのか?」
ふと気になった疑問を口にすると、羽月はふっと目を伏せた。
「……行って、いいのかな」
遠慮がちに呟かれた言葉は疑問形で、一瞬深夜は、その言葉の意味が理解できなかった。
“行っていい”
何か、行ってはいけない理由があるのだろうか。
すると、沈黙に何かを察したのか、羽月が口を開く。
「ほら、私が行くと、嫌な気持ちになる人達がいるから…」
その言葉に、深夜はハッと息を飲む。
自分が気にしないのと、最近は羽月自身も前程過剰な拒絶反応をしなくなったから忘れがちだったが、羽月の白髪は、今も変わらないのだ。
「そう、か」
「だから、どうしようか、迷ってて……」
本当はここで、行かせるべきなんだと思う。
逃げてばかりでは仕方ないと、背中を押すべきだと。
しかしそれは、羽月にとってはあまりにも残酷だ。
彼女は今まで生きてきた中で、その見た目を受け入れられたことがなかった。
『人に拒絶される』ということが当たり前になってしまっている彼女に、無責任に、逃げるなとは言えない。
だから。
「羽月は、どうしたい」
───俺は、羽月がしたいようにさせる。
「───え」
「羽月がまだ、大勢に混ざることに抵抗があるなら、俺もここに残る。少しでも話してみたいなら、お前が傷つかないように、俺が全力で守る。お前の悪口を言う奴がいるなら、言えないようにしてやる。───あとは、お前の心次第だよ」
羽月の瞳が揺れる。
自分の心と向き合うべきか、悩んでいる。
「私、は……」
不安定な言葉が、羽月の心の揺れを表しているようだった。
「本当なら、少しずつ、人と話さなくちゃいけないと思ってる。……だけど、やっぱり拒絶されるのは、怖い。これじゃダメだって、わかってるんだけど……」
少しずつ零れる心の声に、深夜は静かに耳を傾ける。
「でも、私は───」
伏せていた目をゆっくりと上げた羽月の眼差しは、出会った時とはまるで違う。
「私は───もっと、他の人を知りたい」
前に進もうという、光があった。
「そうか。分かった」
その言葉を聞けたことで、深夜の中の覚悟も決まった。
羽月が、他人を知りたいと思うなら。
自分はそれを邪魔するものを、退けよう。
「ちゃんと、自分の心に素直になれたな」
本音を言ってくれたことが、深夜にとって、自分への信頼の証のようで嬉しかった。
とは言え、このまま行っては他の人の注目を集めてしまう。
「あ。あれなら───」
深夜は徐に立ち上がると、引き出しから薄手のパーカーを取り出した。
「これ着てフード被れば、気休めくらいにはなるだろ」
ふわっとパーカーを羽月に羽織らせる。
少しサイズの大きい服に困惑しつつも、羽月は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。深夜がいてくれると、私も心強いよ」
その姿に、思わず”彼シャツ”という単語を思い浮かべてしまった深夜は、ニヤけそうになった顔を慌てて背けた。
「どうしたの……?」
顔を背けられてしまったことに少しショックを受けながら、羽月は問いかけるが。
「いや、大丈夫だ。なんでもないから……っ」
それどころでは無い深夜に、適当に答えられ、首を傾げたのだった。