爪先からムスク、指先からフィトンチッド
 ダイニングテーブルには丸い寿司桶が置かれている。
「今、お茶を淹れるから、好きなもの適当に食べるといいよ」
「ええ、あの、なんかスミマセン。お昼は別に用意してくれなくてもいいんですけど。しかもお寿司なんて……」
「気にしなくていい。僕も食べるんだし。家で食べるときは大抵、寿司か蕎麦の出前なんだ」
「そ、そうなんですかあ」
「部屋に匂いがこもるのが嫌でね。ほかにあまり選択肢がないんだ」
「はあ、じゃあいただきます」
 シンクのほうに目をやると確かに調理器具はない。湯を沸かすためのポットくらいだろうか。食器もかろうじてマグカップとティーポットなどがある程度だ。徹底された余分なものがない住まいにますます芳香は感心すると同時に憧れていた気持ちがすっかりなくなり、もはや同じ人間とは思えなくなっている。食事に誘われてここに訪れるまで、うっすらとではあるが、恋の予感を期待しなかったわけでない。身の程知らずと思われても、想像するくらいは自由だろうと考えていたが、こうも仕事に徹底している姿を見ると尊敬を超えて異次元の人に見える。
「じゃ、また。来週――これから付き合ってほしい」
「あ、はい。失礼します」
 芳香はなんだかデトックスされたように毒気が抜かれてすっきりし足取り軽く帰宅した。

10 リラックスと友達

 次の週も芳香は検体となるが眠り込んでしまう。他人の前で、しかもこんなにかっこいい異性に対して緊張感なく眠り込んでしまう自分が不思議だ。恐らく薫樹は研究者で、芳香はその実験動物であり対等ではないことが彼女を妙に安心させるのだろう。人の前で足の匂いを気にしない時間は初めてだ。



 1ヶ月ほど経つと芳香は自分の足の匂いが格段に減っていることに気づく。休日の昼、足を洗わずに過ごしてみたがやはり以前よりも匂わない。流石に丸1日放置することは無理なようだが、これなら断り続けてきたランチの誘いに応じられるかもしれない。
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